カテゴリ:ペトロ岐部とキリシタン史( 29 )



2008年11月にローマ教皇によりペトロ岐部と187人殉教者が福者に列せられてから10年を迎えたのを機に、NPO国東半島くにみ粋群では「ペトロカスイ岐部神父列福10周年記念シンポジュウム」を開催した。

ペトロカスイ岐部は日本人で初めて徒歩で聖地エルサレムを訪れ、ローマで司祭に叙階された郷土国見の先哲で、「日本のマルコポーロ」や「世界を歩いたキリシタン」などといわれている。
2008年11月には「列福を祝う集い」を、2012年には
「聖人にする集い」を開催した。

シンポジュウムの前にはエクスカーション「浦辺の伝キリシタン遺産めぐり」がおこなわれた。
ペトロカスイ岐部神父記念公園でエコツアーガイド藤本美樹さんによる説明を聞く。
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基調講演は洋画家でキリシタン歴史画を描く村田佳代子さん。
この秋には村田佳代子さん絵画展「ペトロ・カスイ岐部奇跡の生涯展」(全30点)も催された。

若者には語学力を高め、好奇心を持って学問に励むこと、地域住人には故郷の尊さを再認識すること、ペトロの生い立ちの場所(城山・殉教公園・小聖堂など)を観光資源としてもっと活用すること・・・などを話された。
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ミニコンサートも行われた。

じなし同級生の蔵本和美君は若かりし頃、作曲家船村徹さんの内弟子となったことがあり、それが縁で船村徹さんよりペトロカスイ岐部を題材にした国見町ご当地ソング
「道標」を作曲していただいた。
溝口伸一さんのギター伴奏により熱唱した。
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村田望さん(村田佳代子さんの娘さん=ソプラノ声楽家)のミニコンサート。
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地元、国東高校双国校2年上野涼くんによる「ペトロカスイ岐部神父への手紙」が読み上げられた。
上野くんは小学生のとき、みんなでローマ教皇へ手紙を送っている。
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最後に国東高校双国校教諭の田本政宏先生により、ペトロ岐部の生涯から現代社会が学ぶことをテーマにした講演があった。
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世界「人」遺産ともいえるペトロカスイ岐部神父だが、その強い生きざまをふるさと国見に生まれた次の世代の人たちに伝え、世界に向けて発信していくことで福者から聖人に近づいていくのだろう。


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by jinashi | 2018-11-21 11:32 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(2)


  
黒田官兵衛の後、中津に入封した細川忠興の正室ガラシャ(明智光秀の三女)は熱心なキリスト教徒だったが、石田三成より取り囲まれた大阪屋敷で壮絶な最期を遂げている。
そのときガラシャが詠んだ辞世の句が ~
「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ 」



中津にはガラシャを供養するために千利休から忠興に贈られたといわれるキリシタン灯篭(織部灯籠)があることを知り、
2年前のひなまつり見物の際に訪ねた。

中津市教育委員会による織部灯籠説明板には「市内には3基の織部灯籠がある云々」と書かれているが・・
その時のじなしブログに、ジローさんは「中津には4基の織部灯籠があるようだ」とコメントして頂いた。



あれから2年以上経ったが、4基目の織部灯籠を探しに城下町中津に出かけた。

その時ジローさんから教えていただいた中津市金谷にあるお菓子屋「桃屋・甚兵衛」へ向かう。
中津駅前から旧国道10号(現、県道113号)を豊前方向へ向かう。山国川に架かる山国大橋の手前に「桃屋・甚兵衛」はあった。
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店内はたくさんのお菓子がきれいに並んでいる。
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応対してくれた大奥様?にお菓子「織部燈籠」の場所を聞くと、秋から冬のカステラ風のお菓子で・・今(夏の間)は作っていないという。
灯篭の話をすると菓子の箱に載せる懸け紙(帯紙?)を探してきてくれた。
簡単なマップ?も描かれている。
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そして店の冊子にも織部灯籠のことが書かれていた。
(拡大します)
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どちらにも4基の織部灯籠の絵が描かれている。
2年前には自性寺~井上邸~養寿寺と見学して回った。なので・・未訪のもう一つ(4カ所目)は「井上眼科」にあることが判明した。

桃屋・甚兵衛の人気菓子、びったれ餅(きな粉の米餅)とお茶のお接待をしていただいた。
その間、次々とお客さんが来店してくる。
少しばかりのお菓子を買って・・大奥様にお礼をいって店を出た。


先の簡単なマップが描かれた紙をじっくり見て場所を特定しようとするが・・・東西南北やそれぞれの位置もなんとなく実際ではないようでわかりにくい。
自性寺から井上邸へむかう途中で家の前に居た男性に聞いてみた。
いろいろと調べていただいたが、絵の位置関係が分からないのと、「井上眼科」という医院は中津には無いのでは・・と言われた。

かつて井上眼科という医院がこの辺りにあったのかもしれない・・と思ってここで探索を断念した。





福沢諭吉旧居近くの養寿寺を再訪した。
養寿寺の織部灯籠。
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中津市教育委員会の説明板。
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井上邸と井上眼科とはどんな関係があるのだろう・・・

4基目の織部灯籠は見つからなかったが、未解決のままのほうがロマンがあって良いのかも?

 ジローさん、そういうことでご容赦ください。


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by jinashi | 2018-07-13 18:19 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(2)


 
うーたの里を出て、近くの葛木(かつらぎ)にある「キリシタン殉教記念公園」を訪ねた。
1659年(万治2年)からの豊後露見(豊後崩れ、万治露見とも)では、豊後国内で一説には1,000人を超える殉教者が出た。中でも、現在、キリシタン殉教記念公園がある葛木では、約200名が殉教したとされる(wikipedia)
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何度か来ているが・・久しぶりに見る「キリシタン殉教の地の碑」。南島原出身の彫刻家北村西望の作品で、昭和45年に九重町の篤志家により建立された。
2年前に訪れた西望のふるさとにある「有馬キリシタン遺産記念館」にはこのレプリカが展示されていた。
(拡大します)
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前日の6月30日には、バーレーンの首都マナーマで開かれたユネスコ(国連教育科学文化機関)会議で「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に正式に登録された。

ザビエル来訪によりキリシタン文化が花開いた府内(大分市)や日本8大布教地といわれる朽網(直入町)など・・大分(豊後)にも多くのキリシタン遺跡があり、7市町による「おおいたキリシタン南蛮文化協議会」では交流活動により文化や観光の活性化を目指している。


午後はおおいたキリシタン遺跡を訪ねてみよう。
最初に向かったのは臼杵市掻懐にあるキリシタン墓地。

戸次~吉野を経由して臼杵市のR502に入り、籠の瀬バス停にある標識を見て里道へ入る。
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集落に上がると神社(天満宮)に行き当たる。
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石段の右手へ上がると屋根付きのキリシタン墓地があった。
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これが掻懐(かきだき)キリシタン墓。
案内板には
蒲鉾型と直方体型がありどちらも十字架が彫られている。
蒲鉾型のキリシタン墓は長さ131㎝、幅64㎝、高さは48㎝。直方体は長さ117㎝、幅30㎝、高さ33㎝。16世紀中ごろから17世紀初期に造られたと推定されている。

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側には四角形の伏墓のようなものや、国東に多いキリシタンを思わすような仏教墓も並ぶ。
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この地方のキリシタン史については へんろみち大将さんが詳しい。


次に向かったのは野津にある「一ツ木かくれキリシタン地下礼拝堂」。
準備した資料を忘れてしまい・・R10からR502を三重方向に入ったあたりで右往左往する。臼杵市指定文化財だが、どこにも標識はない。
3人の地元人に聞いてやっとたどり着いたところは野口バス停からほど近い一ツ木地区。

行き止まりになったところの家の人に尋ねるとそこの奥様(広瀬さん)が案内してくれた。
高台の丸い丘に直径1mほどの穴が開いている。梯子が下ろされているが、数日来の雨水がたまっていて底が見えないので内部の見学は諦めた。

横穴式古墳を利用したとされる隠れキリシタンの地下礼拝堂です。梯子をつたって降りるようになっていますが、かつては地上に洞穴を隠すように御堂が建っていたといわれています。内部は縦約5m、横約4m、天井高約1.8mで五輪塔一基を安置しています。天井にはうすれて分かりにくいですが、十字が記されているそうです。また洞内の五輪塔には明瞭な十字が刻まれていると言われています。当時のキリシタン弾圧の中、人々の信仰心の深さを物語っています。臼杵市指定の史跡にもなっています。((公社)ツーリズムおおいたHPより)
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広瀬さん自宅裏の崖に安置されたマリア観音様を拝観させてもらった。
冠にある三つの窪みは三位一体を表わすという。
近くにもう一体のマリア観音様があったようだが、事情があって現在商工会に保管されているらしい。
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広瀬さんの話では、今年の秋に開催される国民文化祭でさまざまな臼杵市キリシタン関連イベントが行われるらしい。




石仏公園の蓮畑に立ち寄った。
次々とカメラマン(ウーマン)が訪れていた。
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これから花の見ごろを迎える蓮畑には合鴨がにぎやかに泳いでいた。
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6回目を迎える「石仏の里蓮まつり」は7月8日(日)から(29日まで)開催される。



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by jinashi | 2018-07-03 15:19 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(6)


80歳を過ぎた頃まで、長崎から国東までクラウンを運転して、ドライブがてらに来てくれた叔父が94歳で亡くなった。
大分道~長崎道を走って31日夕刻の通夜に何とか間に合った。

翌日の葬儀に参列した帰路に、去年の夏の
「長崎キリシタン研修旅行」で計画していた(が時間がなく行けなかった)天正遣欧少年使節の千々和ミゲル(1569~1633年?)の墓といわれる場所へ立ち寄った。

天正十年(1582)、遣欧少年使節団としてヨーロッパ諸国へ派遣された4名。
右上=伊東マンショ(主席正使) 大友宗麟の名代。宗麟の血縁。日向国主伊東義祐の孫。後年、司祭に叙階される。1612年長崎で死去。
右下=千々石ミゲル(正使) 大村純忠の名代。純忠の甥で有馬晴信の従兄弟。後に棄教。
左上=中浦ジュリアン(副使) 後年、司祭に叙階。1633年、長崎で穴づりによって殉教。2007年に福者に列せられる。
左下=原マルティノ(副使)後年、司祭に叙階。1629年、追放先のマカオで死去。
中央はメスキータ神父。
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長崎市内からナビで県33を走り、多良見町山川内で標識を見つけた。
(マップ)

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伊木力ダム手前で「駐車場→」を見て右折。
道路脇に車を停めて車列の横を先へと歩いて行く。
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長崎本線赤レンガトンネル手前を左(の坂道)へ入る。
上部にミゲルの墓と言われる石碑があるようだが・・
8月20日より発掘調査が行われていて、「立ち入りはご遠慮ください」の看板があった。
係員(らしい)の方に聞くと現場の上からなら・・と見学させてくれた。
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仮置きされた(石碑を守っていた)堂屋根。
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発掘の様子が掲示されていた。
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発掘する前の(墓と思われる)石碑。  高さは1.8m、幅1.2m。
表に「妙法(法華経のこと?)」
「寛永九壬申年十二月(没年月?)」
「本住院常安霊(ミゲルの戒名?)十四日」 
「自性院妙信霊(ミゲルの妻の戒名?)十二日」 
裏に「千々石玄蕃允(ミゲルの四男)」
(画像はネットより借用)
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ミゲルは棄教したあと、従兄弟の初代大村藩主大村喜前の家臣として伊木力に六百石の領地をあたえられてキリシタン一掃に努めたが、喜前に疎まれて追放される。長崎に逃れたといわれ、それ以降の足取りは不明となっている。


横の坂道を上がって見ると、地元の関係者(らしき)方から声をかけられた。
「ペトロカスイ岐部神父のふるさと国東半島から来た」というと「以前、見学に行ってきた」と言われた。
すぐ横に長崎本線が通っている。諫早~長崎間は2つのルートがあり、こちらは旧線(長与経由)と言われ、便数は少ないようだ。
向こうに26聖人が舟で渡った大村湾。墓標を立てたときにはよく見えたはずだ。
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翌2日の西日本新聞朝刊に
「千々石ミゲルの木棺?発見」と紹介されていた。

 なんと・・見学に行ったその日に発見されたのだ!


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by jinashi | 2017-09-04 12:59 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(12)

道標  2017.7.2(日)

 
今年もペトロカスイ岐部神父の殉教祭がおこなわれた。

毎年の殉教祭で地元「国見ふれあいコーラス」により歌い続けられている歌がある。
題名は「道標(みちしるべ)」。作曲は今年2月に亡くなった船村徹さん。
戦後歌謡界を代表する作曲家の一人で、手掛けた曲は5000曲以上にのぼる。
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実は、この歌が出来たのは・・・同級生のKくんが、若かりし頃船村先生に弟子入りしたことがあったからなのだ。
国見町のふるさとの歌として制作発表しようとしたところ「宗教の唄なんかダメだ」という古い考えのじいさん委員のひと声で立ち消えになったらしい。
もう30年ほど前の話・・・
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道標(みちしるべ)
                  木下龍太郎 作詞
                  船村徹 作曲
                 (上野昭子 伴奏作曲)

1 地図を広げりゃ 米粒ほどの  海に浮かんだ 日本国
  広い世界に 背中を向けて  なんで輝く 明日がある
  ペトロカッスイが 身を捨てて  異国に立てる 道標

2 砂に道なき 砂漠の果てに  浮かぶ国見の母の顔
  杖にすがって 後追いかけりゃ  消える逃げ水蜃気楼
  夢の咲く日を 伴天連が  心で祈る マリアさま

3 国をでるのは ご法度ならば  帰りゃ待ってる 牢格子
  死ぬも覚悟の 戻りの舟を  送る岬は 喜望峰
  ペトロカッスイが 生涯を  捧げて残す 道標



来年2018年には「ペトロ岐部と187人」は列福10年を迎える。
福者とは~カトリック教会において、死後その徳と聖性を認められた信者 に与えられる称号。この称号を受けることを列福という。その後、さらに列聖調査が おこなわれて聖人に列せられることもある。




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by jinashi | 2017-07-08 11:11 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(2)

前夜は北寄りの強風を避けて「ホテル蘭風」下の千里ケ浜海水浴場Pで車中泊。
トイレや休憩所も整備されている。

今日は昨日登った安満岳の近くの鯛の鼻まで行ってみよう。(昨日行っておけば良かった) 
安満岳登山口を通り過ぎて道なりに進むと公園のようなところへ着く。
ここは鯛の鼻自然公園となっている。
「分県長崎県の山」にも掲載されている「山」だが・・・車で山頂まで着いた^^ 
標高は447m。
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展望所からは昨日の安満岳と同じようなすばらしい景色だ。
まずはこれから渡る生月島方向。
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昨日登った佐志岳方向。右に屏風岳、志々伎山・・・
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生月島へ向かう。
県道19号を進むとスカイブルーの生月大橋が近づく。
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辰の瀬戸を跨いで連絡する道路橋(トラス橋)。橋長960m(前後の高架橋を含めると1,332m)、最大支間長 400m。総工費46億円。1991年完成(普通車200円)、 2010年4月より無料化となる。

なぜか左に傾く・・
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道の駅の観光案内所でキリシタン遺跡のことを尋ねたら生月町博物館「島の館」を紹介された。
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捕鯨の歴史や生月島キリシタン文化などの展示は見ごたえがある。
天井に吊るされたクジラの骨格(本物)。大きい!
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かくれキリシタン歴史展示室。ビデオ放映もあり。
「島の館」職員の方も親切丁寧でした。
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島の南にある「だんじく様」を訪ねる。
3台ほどが駐車できるところから海岸へ下って行く。
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足場のよろしくない急坂を10分ほど下ると海岸へ出る。
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ここが「だんじく様」。すこし荒れている。
だんじく=暖竹に隠れていた親子3人のキリシタンが沖の舟から役人に見つかり処刑殉教したという。今でも信者が年に一度ここでオラショを唱え祈りをささげている。(説明板)
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平戸地方の潜伏キリシタンの聖なる山、安満岳。左に生月大橋。
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次に向かったのはクルスの丘公園。
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十字架の裏にある史跡「ガスパル様」。
「永禄6年(1563年)この地に十字架を立て、千人を超す人たちが聖歌を唱し大行進を行った。人々はこの地をクルスの辻と称した。今では黒瀬の辻と呼ばれている・・・・生月領総奉行ガスパル西玄可が弾圧により妻長男と共にここ黒瀬の辻で処刑され殉教した・・・・」(説明板)
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公園から東の海に「中江ノ島」が見える。
中江ノ島(なかえのしま)は、長崎県の平戸島と生月島双方から約2キロの沖合にある長さ400m、幅50mの無人島で、キリスト教が禁止された17世紀前半に平戸藩によってキリシタンの処刑が行われたことから、いわゆる隠れキリシタンの聖地となった。住所区分は平戸市下中野町に属すが、上陸は不可。文化財保護法による重要文化的景観「平戸島の文化的景観」に選定されており、2016年に世界遺産登録審査予定であった長崎の教会群とキリスト教関連遺産の構成資産「平戸島の聖地と集落」の対象でもあったが世界遺産の推薦は一時取り下げられ、改めて2018年の登録審査対象となった。(wikipedia)
信者の人がこの島で聖水を採るところを少し前にTVで見たような・・
世界遺産登録候補12箇所のひとつ
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カトリック山田教会を訪ねる。
生月島は、1558年のガスパル・ヴィレラ神父による宣教以来隠れキリシタンの多い島で、1865年の「信徒発見」の後に黒島(佐世保市)から信徒が島を訪れてカトリックに戻るよう働きかけた。当初はなかなか応じなかったが、1878年(明治11年)に平戸に来たアルベール・ペルー神父によってカトリックの洗礼を受けた人々が山田教会の信徒の祖先である。
1880年(明治13年)には仮聖堂があったらしいが、マタラ神父により1909年(明治42年)に教会建設に着工、1912年(大正元年)に完成、献堂された。その後1970年(昭和45年)に改築・一部増築が行われて、現在の形となった。
なお、生月島では明治初期のカトリックの再宣教時にこれに応じず、潜伏時代の信仰組織・様式を守り続ける「カクレキリシタン」の信徒も多く、いまも維持されている。(wikipedia)
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キリシタン遺跡はこのくらいにして島の最北端にある大バエ灯台へ向かう。
途中の塩俵展望広場から見る柱状節理の断崖。
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大バエ灯台に着く。
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灯台の展望台に上がる。80mほどの崖の上に立っているらしい。
向こうは的山(あずち)大島。平戸市に属する。手前の離れ瀬は鯨島。
今日は風が強い!
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長距離となるので・・早めの帰路につく。
帰路の生月大橋から中江ノ島が見えた。
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生月島にはキリシタン遺跡や景観地などまだまだ見所は多いようだ。
また、次回に平戸島の宿題とともに訪れてみたいところだ。




by jinashi | 2016-10-12 18:26 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(4)

高校女子ソフトボール部の団体などで東横インの朝食には長い行列ができた。

ホテルを出てほど近い日本二十六聖人殉教地西坂公園へ着く。
二十六聖人記念碑。高さ5.6m、幅17m、像は等身大。
記念碑(殉教者群像)はペトロ岐部立像と同じ彫刻家舟越保武氏が4年がかりで制作した。
右から11~16番目の6人はフランシスコ会の外国人司祭と修道士。あとは日本人。右から9番目、10番目と20番目は12~14歳の少年。
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1597年2月5日(慶長元年12月19日)、豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された26人のカトリック信者。日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった。この出来事を「二十六聖人の殉教」という。26人は後にカトリック教会によって1862年聖人の列に加えられたため、彼らは「日本二十六聖人」と呼ばれることになった。(wikipedia)
京都で全員左耳たぶを切り落とされ、堺~大阪~山陽道~小倉~博多~唐津~武雄~東彼杵~時津~長崎西坂まで580Kmを歩く。西坂に着いてすぐに処刑され、その後80日間晒された。
磔の刑に処された西坂の丘(殉教者群像碑となり)。
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長崎市東出津町(旧外海町)の遠藤周作文学館へ着くと館長の本木治氏が迎えてくれた。
(数年前にじなしは本木館長さんをペトロカスイ岐部神父記念公園へ案内させていただいた)
高台にある文学館の中庭から見る角力灘の景色。日本夕日百選。
中央右の島は九州最後の炭鉱(閉山)の島~池島。期間限定で炭鉱跡や往時の面影を巡る「長崎さるく」ツアー(長崎県の観光企画)が催されている。
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女性学芸員から遠藤周作が思うペトロ岐部の人物像などのお話しを聞いたあと、本木館長さんの計らいで地元のクリスチャンで教会守の方より外海地区のキリシタン遺跡を案内していただいた。
最初に向かったのはクリスチャン墓地にあるド・ロ神父の墓。この集落にはクリスチャンが多いようだ。
マルク・マリー・ド・ロ神父~パリ外国宣教会所属のフランス人宣教師(司祭)である。1868年(慶応4年)6月に来日し、長崎県西彼杵郡外海地方(現・長崎県長崎市外海地区)において、キリスト教(カトリック)の布教活動の傍ら、貧困に苦しむ人達のため、社会福祉活動に尽力した。(wikipedia)
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曲がりくねった細い道を進んで杉林をバスチャン屋敷跡へ。
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禁教令により外海地方の神父がすべて追放された後、日本人で洗礼名バスチャンという伝道者がこの地方のキリシタン達を指導したといわれている。バスチャンは追手を逃れるため隠れ家を転々としたと伝えられており、この地もそのひとつといわれている。
(長崎市HP)
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ド・ロ神父・大平(おおだいら)作業場跡へ。
ド・ロ神父は明治12年(1879)外海地方に赴任してくると同時に地域住民の福祉と生活向上のため、様々な福祉活動・慈善事業に尽力した。農業振興もそのひとつであり、明治17年(1884)から出津変岳(へんだけ)の原野を開墾し農園を開いた。 この大平にある作業場跡も開拓に伴い設置されたもので、建設年代は開墾事業が完成する明治34年(1901)頃と推定される。作業場跡は、石造を主体とし、正面の一部が煉瓦造の堅牢な平屋建物で、通称ド・ロ壁(かべ)の技術が用いられており、愛馬を繋いだといわれる留金具などが残る。ド・ロ神父の多岐にわたる福祉活動の一端を示す遺構として価値が高い。(長崎市HP)
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大野教会堂へ。
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ド・ロ神父が自費を投じ設計して建てた教会堂。
1893年(明治26年)竣工。平屋建、瓦葺、練塀で柱はない。世界遺産(文化遺産)を目指す長崎の教会群とキリスト教関連遺産リスト12件の一つ。
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日本式天井。国指定重文で・・中には入れない。
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出津(しつ)教会堂へ。
この教会もマルク・マリー・ド・ロ神父の設計により1882年(明治15年)建設された。その後信徒数の増加等により2度の増築を経て1909年(明治42年)に完成。教会堂は角力灘(五島灘)に面する風の強い当地の気象に対応して、レンガ造瓦葺き平屋建て(外壁は白漆喰を使用)の低い屋根を持つ建物となっている。
ここもユネスコの世界遺産(文化遺産)候補の1つ。
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外海を後にして・・長崎道で東彼杵町へ移動。
海岸にある日本二十六聖人乗船場跡へ着く。
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1597年2月4日、26人は夕刻3艘の舟にり、翌朝時津に上陸した。
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川棚町の常在寺のキリシタン墓標へ。
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墓地を通り過ぎて階段を上がった山裾にある墓標。日本最古のキリシタン墓か?
大村藩では明暦3年(1657)の郡崩れ(郡村を中心に数百名の隠れキリシタンが発覚処刑された) のあと、領内のキリシタン墓は徹底的に破却されたが、元和8年(1622)に没したこの富永二介の妻の墓碑は奇しくもその難を免れたものである。常在寺の過去帳に明暦2年に死亡した富永治介の名があるが、この過去帳は一度書き直されていて、そのとき二を次に書き間違えたのではないかと言われている。
高さ95センチ、幅30センチ、厚さ12センチの自然石の墓碑の中央・~は略の意で、その下はクルス、○の下にMACI(マルシア)はキリシタン名と言われているが異説もある。富永二介妻、その右に元和八年、左に七月十五日の銘がある。このような和洋折衷様式の墓碑は全国でも珍しいという。    
(長崎県指定史跡)キリシタン墓碑の案内板より
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最後の目的地、波佐見町総合文化会館へ着く。
イベント受付の女性に「INRIの銘入り石製十字架」のことを聞くと・・すぐ後ろのガラスケースに収められていた。
2006年、町民により寄贈された。全長は約45cm、幅は広いところで約8cm。
自然石の四面に十字架が線刻され、広い二面には十字架に加え「INRI」と刻まれています。江戸時代初期、禁教令 以降のキリシタン関連史料と考えられ、十字架が四面に刻まれている点から、墓碑ではなく、礼拝用の道具であったとみられます。信徒たちは、これをひそかに持ち運び、皆で集まっては石製十字架の周りを囲み、敬けんな祈りを捧げていたのでしょう。
この石製十字架は、波佐見におけるキリシタンの様子を知る上で重要であり、また、「INRI」銘入りのキリシタン関連史料は国内でも珍しいことから、非常に貴重といえます。
石製十字架には、迫害に苦しみ悩む信徒たちのさまざまな思いや清廉な祈りの声が刻まれているのです。
~はさみ100選ガイドブックより(波佐見町教育委員会刊行)
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「観光交流センターくらわん館」で波佐見焼の学習をして帰路につく。
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 あっ・・しまった! 波佐見町総合文化会館前にある原マルチノ像を見学するのを忘れていた!

2日間、ユネスコ世界遺産登録を目前にした長崎キリシタン遺跡を駆け足で周った。
長崎における禁教時代のキリシタン史をより深く知ることで・・ペトロカスイ岐部神父の偉大さを再認識する研修旅行となった。


  
  いつもお立ち寄りいただき 感謝&御礼053.gif ありがとうございます

 本日(2016.8.30) 、訪問者数が200,000人になりました!

by jinashi | 2016-08-30 15:58 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(6)

ペトロカスイ岐部神父の顕彰をすすめるNPO国東半島くにみ粋群の8名は世界遺産登録をめざす長崎キリシタン遺産の視察研修へ出かけた。
この研修を計画準備中の7月27日、国の文化審議会は本年度の国内推薦候補として「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を選定した。平成29年2月までにユネスコへ推薦書を提出し、同年秋にはイコモス現地調査を経て、平成30年夏に開催される第42回世界遺産委員会で登録の可否が審議されることになる。

ペトロカスイ岐部神父が長崎のセミナリヨまで歩いたであろう「東京大学五野井先生推定コース」を確認する。国東→別府→湯布院→玖珠→日田→甘木→八女までは省略して玉名市へ向かう。

B&G国見海洋センターを6時に出発。宇佐市院内R387経由で大分道玖珠ICに乗り→九州道菊水ICで下りて玉名市高瀬の船着き場跡へは9時過ぎに到着する。
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加藤清正が天正~慶長年間にここ菊池川に米蔵と港を作ったところ。
1600年9月の石垣原合戦(大友義統×黒田長政)で岐部一族は敗走した。翌年、父ロマノ岐部は宣教師を頼ってペトロカスイ岐部と弟ジョアン岐部を連れてこの船着き場から、島原半島先端の口之津~茂木経由で当時長崎にあったセミナリヨへ向かったと推測されている。
現在は(干拓がすすんで)河口からかなり上流にあるが、当時は有明海にほど近かったのだろう。
俵ころがしの坂。
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長洲港から有明フェリーに乗船。
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雲仙普賢岳が近づいてくる。
45分ほどで雲仙市多々良港へ上陸。
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13時にガイドをお願いしていた南島原市ガイドの会有馬の郷(有家案内人えびすの会)山下貞文氏と合流。
最初に有家(ありえ)セミナリヨ跡へ・・  
セミナリヨ=キリシタンの神学校。修道士になるための初等教育機関。
コレジオ=大神学校。聖職者育成及び一般教養のための高等教育機関。

天正8年有馬に設置されたセミナリヨも国内の政情不安やキリシタン弾圧などで各地へ移転を余儀なくされた。有家セミナリヨは規模も大きく府内(大分)セミナリヨもこちらへ合併されたようだ。
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花十字紋入り箱型と干十字紋入り切妻蓋石型のキリシタン墓碑が置かれている。
陽刻された花十字紋。
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近くの墓地にあるかまぼこ型キリシタン墓碑。昭和4年にここの地下から発見された墓標。きれいな花十字とローマ字が彫られている。昭和34年国指定。最も高い価値を有するキリシタン墓標のようだ。ガラス越しなのでよく撮れなかった。
長崎県内には100基ほどのキリシタン墓碑があるようだ。
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北有馬町の日野江城跡(国指定史跡)へ。戦国大名有馬氏の居城。築城は1216年ごろ。
ユネスコ(国連教育科学文化機関)世界文化遺産への推薦を日本政府がいったん取り下げた「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」について、長崎県の「長崎世界遺産学術委員会」は、長崎、熊本両県の14の構成資産のうち長崎県内の2資産を「禁教期との関連が薄い」として除外する方針を決めた。その2資産が日野江城址と平戸の田平天主堂。
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かつての城想像図。
13代有馬晴信は1579年洗礼を受けキリシタン大名となる。1582年大友宗麟、大村純忠(晴信の叔父)とともに名代として有馬のセミナリヨから選出された4人の少年を天正遣欧少年使節として派遣した。1590年帰国の際には日野江城で8日間にわたる報告会が催された。
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国指定史跡となる城址へ・・。
発掘により二の丸への階段には宝篋印塔や五輪塔など仏教石塔が使われたことが判明した。階段は外来系の技術で作られているという。二の丸跡からは金箔の瓦も出土した。
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日野江城南西の麓にあったといわれる有馬セミナリオ跡。 2013年3月には原城とここを訪れた。
ラテン語、日本語、音楽、作文など6年間の西洋教育が行われた。
長崎から有馬へセミナリヨが移転したため、ペトロ岐部は5年間をこの有馬で過ごした。
セミナリヨ終了後に修道士になれず同宿として修行を続けるが、1614年キリシタン追放令でマカオに追放される。
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南有馬町にある有馬キリシタン遺産記念館へ。
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正面彫刻絵はここ南島原出身の彫刻家北村西望の作品で大分市の殉教公園にある「キリシタン殉教の地の碑」のレプリカ。あれ、見たことある・・と思った。
北村西望は長崎市平和公園の平和記念像や原城跡の天草四郎像など多くの彫刻を作った。
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天正遣欧少年使節が持ち帰ったグーテンベルク(活版)印刷機の模型。
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記念館で原城における島原の乱の予習。
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原城跡へ。
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石を落として防御した。黒田勢の宮本武蔵も負傷した・・
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天草四郎像(北村西望作)前でペトロカスイ岐部神父生誕地・豊後の国浦辺の住人達。
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ガイドの山下氏には猛暑の中、あちこちへ案内していただき、ご丁寧な説明をありがとうございました。「聞かんとわからん」ことばかりでした。

口之津から半島海岸線を時計回りで走って夕刻おそくに長崎市のホテルへ到着。
夜は山友・お宮さんご推奨の居酒屋さんで懇親会。
そのむかし、長崎のばあちゃんがお土産でよく持ってきてくれたクジラのコロは懐かしい味がした。
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明日は外海の遠藤周作文学館などを訪ねる・・
by jinashi | 2016-08-29 16:26 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(2)

今、日本人のカトリック信徒史で一番聖人に近いといわれるペトロ・カスイ岐部神父の殉教祭が生誕地の国東市国見町で行われた。没377年になる。
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この日は国東市観光協会による1日周遊バスツアー「さ吉くんバス」も到着する。大分別府から参加した21名はペトロ岐部殉教祭を見学した。
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殉教祭では毎年きれいなハーモニーを聞かせてくれる地元ふれあいコーラスの皆さん。
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講演は大分県立先哲史料館長大津祐司先生による「大友宗麟とキリシタン文化」について。
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さ吉くんバスツアーご一行さまは昼食後、世界農業遺産やキリシタン史跡?を歩いた。実はこのコースは「おどろき歴史遺産!!ウオーキング」としてこの秋にお披露目が予定されている。
下後野池の土手を歩く。
この日の最高気温は35.2℃ここ国見町が県内一番の猛暑だった。
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今でも地元の人々に守られている不動堂。密かな信仰の話も聞かれる・・
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昭和14年2月に竣工した長さ150mのトンネル水路。日照りに困った伊美郷は協議を重ね、櫛来郷須川(すご)地区より(下後野池へ)水を分けてもらっている。
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否定キリシタン遺跡と騒がれた櫛来西浜石造物についてこれまでの経過を聞く。隠れキリシタンたちは神仏を依代として密かに祈ったのかもしれない・・。否定と断定するのもロマンがない。
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合鴨が泳ぐ水田。稲とカモ肉の両方を育てる?
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猛暑の中、コースの一部に荒れた山道歩きもあって熱中症も心配されましたが皆さん無事バスへ乗り込みました。
この後、ペトロ・カスイ岐部神父記念公園、城山の芸術祭作品「説教壇」でガイドの話を聞いたあと帰路についた。

皆さま、お疲れさまでした。また、秋(9月24日)のお披露目ウオーキングにもぜひご参加ください。
by jinashi | 2016-07-06 14:16 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(1)

久しぶりに〇〇〇山へ遠征に、と思っていたが・・降水確率60~70%なので中津のひなまつりへ出かけた。

会場は山国川へ近い諸町通り。
諸町とは「中津城の南側にある中津城下初期の町屋十四町の内の一町。一部に武家屋敷があったが、町の大半は諸々の職業の職人が居たので「諸町」と言われている」
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南部まちなみ交流館のおひなさま。
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細川忠興により創建された「諸町蛭子宮」社殿では ・・
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創業三百年のむろや醤油店。中津藩主奥平公に醤油を献上してきた。
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中津にあるキリシタン灯篭といわれる「織部灯篭」を訪ねる。
最初に諸町のはずれ(新魚町)にある自性寺へ。
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境内の隅にありました。
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「織部灯籠(おりべとうろう)」(現地案内板より)
別名キリシタン灯籠ともいい、かくれキリシタン礼拝用の石灯籠と伝えられている。その後、茶庭(ちゃにわ)に好まれ諸方(しょほう)に庭園灯籠として作られた。
この灯籠の特徴は、竿の上部にクルスを表現したような膨らみを持たせ、同じく竿の部分にガウンをまとった宣教師風な人物の足を外開きにした姿が陽刻(ようこく)される、というものである。また、ラテン文字のような文様(もんよう)があるのもあるが、自性寺(じしょうじ)を含め市内の織部灯籠にはそのような文様はない。
織部灯籠は、中津市内に現在三基のこされており、古田織部(ふるたおりべ)と友人である細川忠興が妻のキリシタンであった細川ガラシャの菩提を弔うために、中津城内に建立した長福寺(ちょうふくじ)にあったものを、それぞれ移転したと伝えられている(別の伝承もあり)。
中津市以外に、県内では大分市に二基、竹田(たけた)・臼杵(うすき)に各一基のこされている。また、宮崎県日南市の旧飫肥(おび)藩内には、天正遣欧使節(てんしょうけのうしせつ)の伊東(いとう)マンショの関係からかキリシタン灯籠やかくれキリシタンの墓などが多数残されている。
織部灯籠という名称は、古田織部正重然(ふるたおりべのかみしげなり)が考案した燈籠の一種であることから、名付けられたと伝えられている。

吉田織部正重然(1544~1615)
織部は、安土桃山時代から江戸初期にかけての大名で山城国西岡(やましろのくににしおか)に3万5千石を領した。また、千利休の高弟として利休七哲(りきゅうしちてつ)の一人に数えられた。
徳川方の大名であったが、元和元年(1615)5月、大坂夏の陣直後、徳川家康に死罪を申し渡され切腹した。豊臣方と内通した罪を問われたなど、諸説あるが原因は不明である。
               中津市教育委員会 中津の郷土史を語る会


自性寺は中津藩主奥平家菩提寺。墓地にある十二代藩主昌猷(まさみち)公の五輪塔墓。代々で唯一中津で死んだ殿様。
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中津市殿町(中津商工会議所前)の井上邸にある織部灯篭。
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火袋に剣菱模様の十字形の紋様が彫刻されている。
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最後の1基は福沢諭吉旧居にほど近い浦町の養寿寺にあった。
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マントをまとった宣教師に見えるでしょうか?
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竹田市の織部灯篭は先週行った歴史資料館にあるようだ。

それにしても・・途中ぽつぽつ小雨もあったがその後はいい天気だった。
今日は天気予報が大外れの〈山日和〉だったようだ・・・
by jinashi | 2016-03-09 13:50 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(8)