奈良大安寺の僧行教(紀氏一族・空海の弟子とも)は宇佐八幡神より「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」とのご神託があったとして京の裏鬼門(南西)にある男山に石清水八幡を建立する。貞観2年(860年)のこと。以後、神主(別当)を行教一族の紀氏が継承することとなる。
さらに行教は、宇佐八幡弥勒寺荘園の伊美郷を石清水八幡へ寄進することにより、石清水八幡のご分霊を伊美郷へ勧請して別宮社を建立する。仁和2年(886年)のこと。
こうして紀氏は畿内から伊美郷に進出しその一族の岐部氏(や櫛来氏)が次第に力をつけてこの地方を治めることとなる。
戦国時代には岐部氏は大友家臣として国東半島の水軍(浦辺水軍)を取りまとめた。ザビエルと謁見した大友宗麟が受洗したことで岐部一族にもキリシタンになったものが多く、ペトロ岐部の父ロマノ岐部も岐部氏の有力家臣だった。
その岐部氏も大友吉統とともに石垣原の合戦で黒田如水に敗れ、一族は逸散する。
その逃げ城が正月屋敷と言われている。合戦翌年の正月には大根をもちの代りに食べたともいわれている。
(国東市国見町櫛来と岐部の境界あたり)
数日前にいっちゃんより正月屋敷探検のご案内をいただく。
岐部のふるさと展示館Pに9時に集合。
本日の探検隊メンバーはいっちゃん、富さん、そしてみっきーさんとじなしの4名。
いっちゃんの先導で岐部オレンジ道から作業道を山へ入る。岐部谷の西山沿いにをすすんだ道の脇へ車を停めて新しいコンクリート道をすこし上がる。9時46分。
富さんが赤テープをつけながら自然林の山へ入る。
すぐに稜線が見えてくる。
尾根へ上がると人工的に配置された自然石が列をなしている。
傍には石が散らばっており、家の基礎をなしていた石かもしれない。9時52分。
ここが正月屋敷の後なのだろうか?
その中にある30~40㎝角ほどの石に彫られているのはクルスなのか?
尾根は南へと高まっている。その櫛来寄りの土塁状になったところはシシ垣かもしれない。
シシ垣=猪垣、鹿猪垣、鹿垣と書かれるようだ。
櫛来の人は昔から櫛来社(岩倉社)を尊崇し、その眷属として鹿を大切にしてきた。しかしこの鹿が田畑を荒し村民が困ったため櫛来村の村境に総延長12Kmのシシ垣を築き、村から鹿を追い出したという。以降、櫛来の人は鹿を捕ったり食べることは出来ないこととなっており、今でも固く守られている。
その土塁にそって上がりついたピーク(約250m)の岐部寄りに大石が見えてくる。(矢印)
高さは1.2m、横は1.7mほどか。10時6分。
3か所にクルスが刻まれている。隠れキリシタンの拝み石か?
少しわかりにくいか…
直線彫りで新しい感じ。
右手前方には鷲巣岳や黒木山が頭を出している。
その先のピークまで行ってみる。
途中の鞍部手前から不動山や千灯岳が絶景だ。初めて見る角度です。
登り返したピークは手前のピークとほぼ同じような高さか。
枯木立の間から櫛来の谷が見えている。10時25分。
伊美の亀崎沖には船も見える。
元の正月屋敷跡?に戻り、その先の204.7mピークへ上がってみる。
ここにも石が多く転がっているが…?
204.66m4等三角点「岐部」。10時59分。
猪さんの通り道を歩いて車へ戻る。
前回いっちゃん達が来た時には見事な紅葉だったという。11時14分。
400年以上の時が経って、遺構は平たくなりそして堆積物に覆われていく。
敗戦の武将たちがどんな思いでここで過ごしたのだろうか…
本日のGPSマップ(拡大します)