豊後高田市香々地の長崎鼻リゾートキャンプ場で23日からはじまった「菜の花フェスタ2013」に出かけた。
今年は3月9日にオープンした国東半島アートプロジェクト2012「香々地プロジェクト」と連動したイベントで盛り上がりを見せている。

(豊後高田市~長崎鼻リゾート)


まずは色のピラミッドへ向かう。
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タイトルは ~「色・色・色」。
作者は韓国を代表するクリエーター、チェ・ジョンファさん。
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ピラミッドそのものに花が少なく淋しい感じ…。
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ピラミッド上から見る長崎鼻先端部。
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廻りに広がる菜の花畑。 黄~黄~黄・・・・
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むこうは周防灘。1800万本の菜の花というが…。
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先端部のカフェレストランFIORE前にある「念願の木」。
訪れた人が願い事を書いて吊るすとその短冊はオノ・ヨーコの作品「イマジンピースタワー」の台座に永久に納められるという。
タワーはアイスランド首都レイキャビック沖の島にあるという。
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そして…オノ・ヨーコの「見えないベンチ」。 石のベンチが岬に13基点在している。
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ベンチの前にはオノ・ヨーコの詩集「グレープフルーツ」から選ばれた詩が刻まれている。
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ベンチに座って詩の世界へと … イマジン …。。
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 ここ長崎鼻では ~夏はひまわりが、秋はコスモスが迎えてくれる。
by jinashi | 2013-03-26 14:18 | 国東半島芸術祭 | Comments(13)

各地で早い桜の開花が聞かれ、野のお花もあわてているのかもしれない。
久々にくじゅうの山に登ろう。昨年暮れの中岳以来だ。

黒岩山(くろいわやま・1502.6m)  大分百山~3回目
 上泉水山(かみせんすいやま・1447m) 下泉水山(1296m)

GPSマップ(拡大します)
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今日は九州自然歩道を牧の戸へ登り、黒岩から泉水山を周回してみようと思い長者原に着く。すると…ちょうど我々を待っていたかのごとく牧の戸峠行きの日田バスが停まっている。本能的に?急いで登山靴を履いてバスに乗り込む^^;
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8時30分に長者原を出発。実はこのバスは2度目で、前回(2009年4月)も同じコースを歩いている。親切な運転手さんでした。
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10分ほどで牧ノ戸峠に到着。料金は290円。長者原と牧ノ戸の高低差≒300mほど楽をしてしまった。
トイレを済ませ、今日はここがスタート。8時50分。
県道11号(やまなみハイウエイ)を渡り北へ向かって遊歩道を歩いて行く。
東屋を過ぎると登山道は枯れ笹と緑の馬酔木の群落する中を黒岩山へと向かっている。
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急坂に取り付く。山道は何列かに分かれ合わさり上部に続く。
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20分ほど息弾ませて頑張ると傾斜が緩み、枯れたクマザサの台地に上がりつく。
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標識より山頂部へ向かう。少し下って岩場を登り上がると黒岩山山頂だ。
実は…この山こそがじなしがくじゅうで初めて登った山なのです。
3度目となる山頂写真
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山頂周辺にマンサクが見ごろです。
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マンサクのむこうは大崩ノ辻(おおくえのつじ)。
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玖珠富士の異名をもつ涌蓋山(わいたさん)。その麓は湯坪温泉街。
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一休みして泉水山へと向かう。向こうにくじゅう連山が絶景。
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前方に上泉水山が近づいてきた。
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山頂直下から来た道を振り返る。
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上泉水山でいっしょになった久留米からのご夫婦としばし山話…。よく話されるお二人でした。
九重青少年の家の方から登ってこられたようでした。
風裏で昼食をいただいていたら空から黒いものが降ってきた。野焼きの燃えカスだ。煙のベールがかかったようで薄濁りの空となってきた。
むこうは大崩ノ辻。崩壊地が痛々しい。
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下泉水山へと下っていく。
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馬酔木の蕾も開いてきた。
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馬酔木の森から下泉水山の岩場に登る。
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上泉水、大崩ノ辻を振り返る。
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馬酔木の森を抜けると野焼きも近い草原に出て防火帯を下る。
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長者原も見えてきた。
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橋を渡る。
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荒れたキャンプ場を通り過ぎると長者原園地へ着く。12時32分。
駐車場もすぐそこ。
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レストハウスで温かコーヒーを頂いて一休み。
帰路に黒岳麓の男池園地へ行ってみました。
目指すは…これ! 待っていてくれたように咲いていました!
春の訪れを告げる~ユキワリイチゲ(雪割一華・別名~瑠璃一華)
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ネコノメソウも
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バイケイソウも芽吹き始めた
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by jinashi | 2013-03-18 18:44 | 大分県の山歩き~くじゅう山系 | Comments(8)

早い時間に下山したので雲仙温泉「よか湯」で朝風呂に浸る。
午後は天草四郎率いる島原の乱の舞台となった原城址とペトロカスイ岐部が学んだ有馬のセミナリヨ跡を訪ねてみよう。

(南島原市マップ 赤~原城跡 青~セミナリヨ跡)


天草四郎率いた原城址へ
R251を半島先端の口之津へ向かって南下する。途中何度かキリシタン墓の案内板を目にし、キリシタン大名有馬氏の歴史ゾーンを感じる。南有馬町乙から標識を見て海岸部へと左折、道なりに進んで原城(はらじょう)跡へ着いた。
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元和の一国一城令で廃城となった原城は、1637年(寛永14年)に全国の耳目を集めることとなった。世に言う「島原の乱」が勃発したのである。島原藩主松倉重政・勝家父子は島原城建設による出費などの財政逼迫により苛政を敷き、また、過酷なキリシタン弾圧を行ったことにより農民一揆を引き起こした。この一揆は島原半島のみならず天草にも飛び火し、島原城・富岡城が襲撃された。しかし、一揆の攻城はうまく行かず、やがて一揆の群衆は天草の一揆群衆と合流し約3万7千人が廃城となっていた原城に立て籠もった。 小西行長の家臣の子孫といわれる天草四郎を総大将とし、組織だった籠城戦を展開し幕府軍と戦闘を繰り広げた。 一揆側は3か月に及ぶ籠城には兵站の補給もなく、弾薬・兵糧が尽き果ててきた。対する幕府軍も1千人の戦死者を出しながらも新手を投入し、ついに1638年4月11日から12日(寛永15年2月27日から28日)にかけての総攻撃で一揆軍を壊滅させ、一揆軍は(幕府に内通していた一名を除いて)老人や女子供に至るまで一人残らず皆殺しにされたという。幕府軍は戦後、原城を徹底的に破壊した。その一方で、島原藩主松倉勝家は苛政により乱を引き起こした責任から、大名としては前例のない罪人としての扱いである斬首に処せられた。(wikipediaより)

三方を海に囲まれた岬にある原城址。本丸があり、天守閣が建っていたという。
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当時15歳の天草四郎にどうしてそのようなカリスマ性統率力があったのか?
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島原の乱のあと、城址は幕府軍により徹底的に破壊され、一揆軍の死体も一緒に埋められたようだ。石の下から多くの人骨が出てきたという。
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桜の古木の下にある天草四郎の墓
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海に向かう天草四郎石像。
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ペトロカスイ岐部を偲び有馬セミナリヨ跡へ
原城址を離れ、R251を戻るようにして市役所北有馬庁舎へ着く。
庁舎に車をとめて前の高江川に沿って歩く。有馬川と出合う手前にある「有馬川殉教地」。
棄教を拒否した有馬直純(有馬氏2代目日野江城主でキリシタン大名。洗礼名ミゲル)の重臣とその家族の8名が2万人以上の信徒が見守る中、見せしめの火刑となり殉教した。その中には11歳の少年もいた。
8人は2008年11月にペトロ岐部と187人の福者として列せられている。
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かつて城下町として栄えたであろう昔の街道を横切り、日野江城址に向かう途中に有馬のセミナリヨ跡がある。
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イエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関であった有馬セミナリヨ(※高等教育機関はコレジオという)は1580年にキリシタン大名有馬晴信のもとに開かれている。地理学、天文学、語学(ラテン語)、宗教、美術、音楽など当時最先端の西洋式教育がなされたようだ。
当時の建物の様子。多い時には100名以上の生徒が学んだという。
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1期生には天正十年(1582)より遣欧少年使節団としてヨーロッパ諸国へ派遣された伊東マンショ、原マルティノ、中浦ジュリアン、千々石ミゲルの4名がいた。大友宗麟の名代として主席正使をつとめた伊東マンショは帰国後謁見した秀吉に仕官を勧められたが、司祭になることを決めていたためそれを断った。
(右上が伊東マンショ)
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9年前、じなしがイタリアを旅したときにガイドから「天正遣欧使節団の4少年たちがヴェネツィアのドッカーレ宮殿やフィレンツェのヴェッキオ宮殿を訪れた初めて日本人です」と聞いたことを思いだした。
また使節団はグーテンベルク印刷機(活版印刷機)を日本に持ち帰っている。

そして1600年、ペトロカスイ岐部が入学。
帰国した伊東マンショ(当時31歳?)らから薫陶を受けている。このセミナリヨで5年間学ぶ中で深い信仰、強い信念そして実行力を身につけたのであろう。
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近くにある青面金剛庚申塔。聖母マリアがキリストを抱いているように見える。
島原の乱から40年余り後に建立されたようだ。
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13歳のペトロ岐部が豊後浦辺よりこの有馬へどのような道を辿ってきたのだろうか? 
同郷人としてこの地を訪れ、4百年の時空を超えて感慨深いものがあった。

by jinashi | 2013-03-13 13:07 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(8)

昨日は南風が吹いていきなり初夏を思わす気温となった。さらに大陸から黄砂と微小粒子状物質PM2.5がダブル飛来しているようですっきりしない。
前夜遅くに雲仙市千々石町の田代原トレイルセンター駐車場に到着し車中泊。
早朝、車を叩く雨音で目が覚める。今日の午前中はぐずついた天気のようだ。


九千部岳(くせんぶだけ・1062.4m) 
 九州百名山地図帳~90座目・前九州百名山~90座目

(赤~吹越コース登山口)


トレイルセンターからR389に出て吹越トンネル手前の道路脇に駐車。
かすかな霧雨模様なので雨具を着けて出発。8時28分。視界も50mほど。
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100mほど戻ったところが登山口。ここの標高≒850m。
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荒れた石段を登っていく。ここは九州自然歩道。
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峠に上がりついた。正面から霧雨交じりの強風が吹きつける。
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峠からもったいないくだりが続く。標高差で60mほど下るとあとは緩やかに登るピクニック道となる。
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歩き始めて40分ほどで田代原牧場からのコースと出会う。ここには木の鳥居が建っていたようだ。
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ロープ場も現われて急登となってくる。
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岩場を這い上がる。
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肩に上がりつくと横殴りの強風にさらされる。
天気が良ければ左に展望が開け、前方には山頂部が望めるところだろう。
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右に展望岩を見て、さらに連続する岩場を進むと山頂へ到着する。9時44分。
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天気が良ければ南東に普賢岳(平成新山)をはじめ360度の素晴らしい眺望が楽しめるはずだ。
ガスの中で山頂写真。
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谷あいがヤマボウシの白で埋めつくされるという6月にもう一度登ってみたいものだ。山頂にある方位盤。
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すぐに往路を戻る。1時間足らずで無事に下山。10時42分。
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州百名山も千部岳で90番目のサンキュウ登山となりました。
~このあと南島原にペトロカスイ岐部が学んだ有馬セミナリヨ(神学校)跡を訪ねてみよう。

(GPSマップ~拡大します)
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         ツクシショウジョウバカマ(筑紫猩々袴)
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         ネコヤナギ
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         ヒカゲツツジ(蕾)
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by jinashi | 2013-03-11 16:37 | 長崎県の山歩き | Comments(10)

青鬼さんに誘われて豊後高田市田染地区の岩屋探訪に参加した。
荘園の里小崎「ホタルの館」に8時集合。地元から荘園の里推進委員会長をされていた河野繁利さん達3人(全員が河野さん)がナビゲーターとして参加。
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青鬼さんから以前よりお聞きしていた行入寺副住職の隈井修道さんと木田さんの7名の編隊でスタート。
田染小崎の奥の空木へと向かう。途中に垢離場(禊をする水場)や大山観音(入口)などもあり、かつての六郷満山本山本寺(もとやまほんじ)西叡山高山寺(さいえいざんこうざんじ)の霊場にいることを感じる。
奥愛宕社からは5人が軽トラの荷台に乗って林道を上がっていくと子ども時代を思い出す。

最初に轆轤(ろくろ)岩屋へ向かう。
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84歳の繁利さんについて60代5人と30代1人が昔山田だった石垣を通って山道を入る。
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轆轤(ろくろ)岩屋に着いた。横長の岩屋で、奥の上部が煤けている。修験者が暖を取ったり食事をしたりしたのだろう。
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この岩屋は繁利さんが平成22年11月の国土調査の際に発見したようだ。
参拝者には板に奉書してもらうようで、皆で記帳する。
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同行した行入寺の修道さんは国東半島にある修験の岩屋の調査活動をされており、地元の新聞にも取り上げられている。
(2013年2月13日・大分合同新聞)
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この轆轤(ろくろ)岩屋にも数回訪れており、今回はさらに奥深くにある岩屋をさがしているのだ。紙上では「豊後豊前六郷山百八十三カ所霊場記」を基に調査を進めており、あと数か所が見つかっていないようで今回もそこらあたりが目的らしい。
それにしても若い僧侶が一人黙々と自寺や六郷満山の古い歴史をたどる活動をしていることは立派の一言。じなしとの会話にも聡明さを感じさせます。
岩屋の中から外を見る。
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急坂の道なき植林帯を次の岩屋をめざす。
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下りついたところに古い道があってその左手に岩屋がある。
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この岩屋は、かつては地区の人たちに守られていてお接待も出されたようでしたが…今では荒れている。
木箱の中には4体の仏が祀られている。左の1体は西叡山高山寺にあった焼け仏らしい。
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江戸時代初期、高山寺は比叡山から来た尼さんの付け火で焼失したとも言われている。
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一旦軽トラへ戻り、昼食タイム。
小崎荘園へと下り、桝渕から林道を登っていく。修道さんと河野さんと確認しながら再度奥深い岩屋をめざす。
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途中から尾根に上がり急坂を登っていく。317mピークあたり。
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前には岩峰がそそり立つ。
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さらにピークを巻いて登っていく。
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やっとたどり着いた岩屋。
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ここも岩が煤けた部分があり、厳しい修行が偲ばれる。
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すぐ上のピークに上がってみる。うしろにそびえる岩峰は西叡山に続く。
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ピークから見る小崎荘園。間戸の峰も見えている。平成22年には国選定重要文化的景観に指定されている。
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一旦軽トラ近くに戻り、最後の岩屋へ向かう。
荒れた沢沿いの急坂を登っていく。
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右手上部の崖に上がるとその先に岩屋が現われた。
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棚状の所には仏が祀られていただろう。このあたりに何度か通った修道さんもこの岩屋の発見に感動の様子だった。
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往路を慎重に下って、ほたるの館へと戻る。
平安末期には国東半島に六郷満山という仏教文化が隆盛を極めたといわれている。それはこのような岩屋が多くあり、行者がこもって修行するのに都合がよかったことも大きな要因だったのだろう。

3人の河野さん、修道さん、大変お世話になりました。
by jinashi | 2013-03-02 19:12 | 国東半島あれこれ | Comments(8)