国東市武蔵町~西武蔵小学校

第9回み仏の里くにさきウオーキングは5月12日(土)~13日(日)の2日間に渡って開催される。
初日12日は国見町赤根温泉から豊後高田市夷にかけて峰入り道を歩くコースで、
翌13日(日)には武蔵町の吉弘城や吉弘神社など大友田原氏の武将吉弘氏の歴史を中心にしたコースを歩く。

今日は事務局長のY下さん、地元のY見さんとじなしの3人で下見に出かけた。
スタート&ゴールを武蔵町西小学校とし、当日のルートを決める。
武蔵西小学校→(市道丸小野線・峰入り道)→(柿園・子ども鬼会~説明のみ)→丸小野寺→Uターン→松ケ迫(山越え)→西光寺・天満宮(昼食)→吉弘城址→(戻る・武蔵町生まれの数学者~末綱恕一すえつなじょいち生家跡1898-1970)→永泰寺・吉弘氏7代墓(加藤家)→吉弘神社(楽庭八幡社~吉弘楽)→祇園社歌碑・生家跡(武蔵町生まれの歌人~滝口武士たきぐちたけし1904-1982)
→武蔵西小学校へ戻る
 
 

最初に吉弘氏家臣の子孫室利則さん宅へ。家宝の数々を見せていただきました。
戦後の供出を免れた戦国時代の槍。鎧を通るように細くつくられている。槍の柄は紫檀でできている。
数年前に研ぎに出したそうだ。
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吉弘氏最後の武将統幸(むねゆき)鎧姿画像。大友義統(よしむね~宗麟の長男)の家臣として石垣原合戦(1600年9月13日)に出陣する時の絵。37歳。槍の名手。大友四大名の一人。統幸は義統へ西軍(石田三成)につくことを反対したが受け入れられず、黒田軍と果敢に戦うも戦死する。 
朱の槍は太閤秀吉から授かったもの。戦後まで吉弘楽の際その赤い槍は閲覧することが出来ていたという。統幸は現在別府市の吉弘神社に祀られている。墓は神社の裏にある。
(統幸の墓は豊後高田市松行の金宗院跡にもあるようだ)
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勢場ケ原(杵築市山香町)の合戦で敗れた吉弘氏の武将の合同供養牌?
大村山(おおむれやま)山頂にある六名の家臣の供養碑が写されている。三河氏は現国東市長三河明史氏の祖先とも。
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(勢場ケ原の合戦~1534年4月6日)
予想外の背後から迫った大内氏に対して血気にはやった吉弘氏直(うじなお~統幸(むねゆき)の曽祖父?・当時19歳)は大村山から一気に馬で駆け下りて(何時しか雁行の陣となって)敵陣に突っ込んでいく。迎え撃つ大内氏は鶴翼の陣で待ち受ける。氏直の馬に矢が命中、氏直は最後に弓矢の総攻撃を受け討ち死にする ……。


室さんにもご同行していただき吉弘城址を訪れる。
説明板には「建武の頃(1334)吉弘氏初代又次郎正堅の築城。初代正堅は大友能直の子、田原泰広の孫直貞次男。以降2百年あまり続いた…」
周辺に掘割を巡らせた有事を想定した山城で建物はないそうだ。
少し下った麓には居城があったという。
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今は廻りに樹木が大きくなっているがほぼ全方位を見渡せる位置にあるようだ。
両子山方面。
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吉弘城の麓にある永泰寺は吉弘氏の菩提寺。累代の位牌が祀られている。
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吉弘氏7代の墓。無縫塔(むほうとう)は吉弘氏。五輪塔は妻の墓という。末裔加藤家の庭にある。
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吉弘神社(楽庭八幡神社)の仁王像。長~い間石灯篭を持っている。
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毎年7月の第4日曜日に「吉弘楽」(国指定無形文化財)が行われる。
「吉弘楽」は南北朝時代の頃、大友一族の初代領主吉弘正賢が戦勝と五穀豊穣を祈願して奉納したのが始まりといわれている。大友氏の改易により一時中断していたが、元禄年間に農作物の虫除けのため杵築藩主が再興する。楽打ち(吉弘楽の演奏)は、本頭(ほんがしら)、中頭(なかど)、末頭(すえ)の3組に大きく分けられ、各組は、音頭、鉦、笛、念仏申、端楽の役に分かれて、総勢49人で行われる。太鼓打ちは、立烏帽子・兜・陣笠をかぶり、旗差物を背中に差すなど中世の武士を思わせる出で立ちで、太鼓を打ち鳴らしながら荘重かつ勇壮に舞います。(市HPより)

当日の吉弘氏関係のガイドを吉弘氏家臣末裔の室利則さんにお願いした。
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その後、楽庭社から(仲西、柿園地区で毎年2月の第2日曜日に行われる)丸小野子ども鬼会の稲荷社、丸小野寺、西光寺、祇園社にある滝口武士歌碑を周回する。
武蔵郷にもすばらしい歴史遺産が多く残っていることを実感する。

ウオーキングのお問い合わせ&申し込みはこちらまで~
 090-4983-3286(山下まで) 当日申し込みもOKです。

by jinashi | 2012-03-30 12:57 | 国東半島あれこれ | Comments(0)

竹田市大字長湯字原(はる)

マンサク探訪の帰路に長湯の原キリシタン墓地を訪れる。
先3月4日には野津町のキリシタン墓地現地説明会に出かけたが、戦国時代には野津から竹田地方にかけて多くの信者たちが居たことを知る。
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説明板によると
~当時この地区は朽網(くたみ)と言われ、1550年~1580年には300人の信者が居たといわれる。日本で最初の教会が設けられており、日本八大布教地(府内、平戸、博多、鹿児島、山口、京都、堺とともに)のひとつに数えられていた。
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T型の墓標に刻まれている「INRI」の文字。
キリスト処刑のクルスに掲げた「ナザレの王ユダヤのイエス」の頭文字。
墓碑ではなく墓地全体を見下ろしていたクルスに載せられた墓標で、キリシタン信仰華やかなりし頃のものだという。…干十字の上部なのかもしれない? 昭和24年に県指定史跡となっている。
国東市国見町櫛来にもINRIと刻まれた石(祭壇石か?)がある。野外にあって風化が進んでいるのが心配だ。
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1549年にフランシスコザビエルの布教により広まったキリスト教も、1612年の禁教令が出されると、信者は次第に改宗するかもしくは「隠れキリシタン」となっていく。
秀吉による伴天連追放令が出された1587年に生まれたのが…豊後浦辺(国見町)の出身で郷土の偉人、福者・ペトロカスイ岐部神父だ。


くじゅう連山麓の花園に立ち寄りました。
春を告げる「福寿草」 花言葉は「幸福」
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こちらも早春の花「雪割一華(ゆきわりいちげ)」
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by jinashi | 2012-03-27 19:03 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(0)

竹田市レゾネイトクラブくじゅう登山口(くたみ別れ登山口入口) 
   赤~登山口  青~立中山

立中山(たっちゅうさん・1464.4m)
くじゅう花暦のオープニングを告げるマンサクが見ごろのようだ。
マンサクの語源は明らかでないが、早春に咲くことから「まず咲く」が東北地方で訛って「まんずさく」となったとわれている。また豊年満作に通じるからともいわれる。

りっちゃんを誘って早朝に出かける。
夜明けのくじゅう連山は薄っすら雪化粧をしており長者原辺りから思いがけずの雪道となる。気温は-5度。大曲から牧ノ戸へと凍結した雪道を恐る恐る登る。瀬ノ本へ下りてR442へ入る。赤川温泉手前で路面の雪も少なくなって一安心。花公園前から県道669(ぐるっとくじゅう周遊道路)へ入る。沢水キャンプ場を過ぎてレゾネイトクラブくじゅう前の従業員専用Pへ着く。従業員の方から100mほど先の第3駐車場へ止めるように言われてそちらへ移動する。

今まで何度か沢水展望台から歩いていたが今日はgangeeさんHPで見たレゾネイトクラブくじゅうから朽網(くたみ)別れへつなぐコースを歩く。
準備をして冬景色の中を歩き始める。寒い!! ちょうど7時。ここの標高≒820m。
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「くたみ別れ登山口」標識と「一番水」標柱のあるところから山へ入る。
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指導標により沢沿いを進む。「セセラギの林」というらしい。途中にベンチなども置かれている。
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「山桜の園」へと入る。
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園を抜けるとくたみ別れに出会う。歩き始めて25分ほど。
左手より沢水展望台からの道と合流して山へと入る。この先の新雪には踏み跡はなく本日一番乗りのようだ。(犬の足跡らしきがあったが…)
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マンサクが目につくようになり、ジグザグの急坂を登り上がると岩の多い鍋割峠につく。
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やさしいお顔をした峠の観音様と再会する。
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鍋割峠を降りて行くと遠目には枯れ木に黄色のベールがかかったようにマンサクがあちこちに咲いている。
形が佐渡島に似ているという佐渡窪の湿原を進む。右に大船山、左に白口岳、正面は立中山方向。
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佐渡窪の真ん中あたりにちょうど見頃のマンサクを見つける。
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縮れたひも状の花びら4枚で 一つの花を形成しているようだ。
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白口岳をバックに…。
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本日2番目のグループ7人組が到着してきたので場所を譲って先へ進む。
鉾立峠に上がると冷たい風が吹き抜けている。
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一休みしてここから標高差100mほどの立中山へ向かう。じなしも初めての山です。
急坂をひと登りすると緩やかな登山路となり先の山頂部へと続いている。
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ミヤマキリシマが群生する山頂部では雑木が刈られてすっきりしている。まっすぐは大船山登山路へと続いている。
大船山をバックに山頂写真。9時42分。
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野焼きも近い坊がつる。テントが5つ見える。
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白口岳方向。鉾立峠から白口岳への急坂は山登りをはじめた頃、苦しんで登った思い出がある。
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鉾立峠へ下りて風裏で早いお昼。7人組が白口の急坂に取り付いている。
佐渡窪へ下りて行くと雪が舞いだした。
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下山路で次々と登山者に出会う。皆さんお目当てはあのマンサクなのでしょう。
「咲いてますよ!」と教えてあげると笑顔がかえってきます。
くたみ別れから「山桜の園」へ出ると青空が広がってきた。4000本の山桜は4月下旬が見ごろのようだ。
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レゾネイト近くに下山する。12時20分。朝の雪もすっかり解けている。
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今日のGPSルートマップ(クリックすると拡大します)
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シロバナネコノメソウ
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早春の勢い~ バイケイソウ
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沢山の蕾をつけたミヤマキリシマ。今年は楽しめるかも?
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馬酔木も春を待ちわびている。
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下山後の温泉は無料で停めていただいたレゾネイトクラブくじゅうの温泉「紅殻之湯(べんがらのゆ)」に立ち寄る。
鉄分が多い赤褐色の湯は疲労回復に効き目があるそうだ。500円也。
by jinashi | 2012-03-27 14:21 | 大分県の山歩き~くじゅう山系 | Comments(0)

中津市耶馬渓町川原口


耶馬渓町で行われた「第1回長岩城探訪ウオーク」にガイドの仲間を誘って出かけた。
2006年5月の「犬ケ岳シャクナゲ鑑賞登山会」に参加したとき、帰路に長岩城があることを知り一度訪ねてみたかった。
1か月ほど前に新聞で探訪ウオークの記事を見て数日後に申し込みをしたがそのあとすぐに定員(100名)になったようだ。山城などを研究する歴史好きの人も多いようだ。
R212の柿坂から県2号へ入り津民公民館へ車を止めてマイクロバスに乗る。
永岩小学校で受付を済ませて開会式場所(すぐ下)へ向かう。
本日、じなしと一緒に参加したO隊長、ありさん、とみさん。
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進行係をされている女性の方が昨秋、国東市の旧千灯寺を訪れていただいた耶馬渓アカデミアの会代表のYさん(緑のジャンパー)と知る。Yさんとは電話でガイドの打ち合わせをしている。(何と、その日の担当ガイドは本日同行のとみさん、ありさんでした)
スタートする前にご挨拶をさせていただきました。
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神事が執り行われ城址が昨年3月に大分県指定史跡となったことから記念碑の除幕が行われた。
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豊前守護職・宇都宮信房は弟重房に下毛郡野仲郷を分与する。重房は姓を野仲と改め1198年に長岩城(山城)を築城する。自然の地形を利用した長岩城の遺構は規模が大きく地方豪族の中世山城としては九州では最大規模で、特に銃眼のある石積櫓(いしづみやぐら~楕円形砲座)はわが国最古の城郭遺跡である。以後野仲氏は下毛郡の豪族として天正16年(1588年)黒田長政に攻め落とされ、廃城となるまで22代390年にわたって下毛郡を支配する。(保存会資料より)
長岩城が黒田長政に攻め落とされ、一族が城内で自決したとき、野仲氏家臣が密かにお姫様を連れだし竹田市の山奥に逃れていったという話ものこっているようだ。竹田市には今でも野仲姓が多いという…。
これから向かう長岩城址のある扇山。標高は531m。標高差200mほどを登る。
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約100名の参加者はA~Eグループ(各20人)へと順次出発する。
我々Cグループを先導する地元ボランティアの(楽しい)お二人。歩き始めてすぐに雨が降り出した。
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山に入ると早速石積の防塁が現われる。ここは「二之城戸」。雨も小降りとなる。
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長さは65mある「三之城戸」。石塁は山頂近くから運んだ鉄平石を強固に積み上げたもので石の大きさは最大で1mほど。
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谷の向こうに見えるのは砲座跡か?
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侍たちが気勢を上げ待機したという東之台から本丸へと列は続く。雨もあがったようだ。
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やっと本丸(山頂)に登りついた。途中渋滞もあり、登り始めから1時間ほど。
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耶馬渓歴史観光案内人による説明を聞く。礎石が残っており本丸として威厳を備えた建造物があったらしい。
(ここも一山。穴井さんオレンジ山名プレートがありました)
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一休みしたあとは西之台(出城跡)へ向かう。連なる石塁。
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背後が絶壁となっている西之台から水場を経由して往路と出会い、麓へ下りる。銃眼のある最古の城郭遺跡石積櫓へ行ってみたかったのだが…長い梯子もあり危険なので今回は行かないそうだ。

昼食会場の永岩小学校へ戻る。昭和にタイムスリップしたかのような懐かしい学校だ。
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講堂(このことばが残っているのが良い)で昼食をいただく。地元女性グループのおにぎりやお汁はほんとに美味しい。
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アトラクションは永岩小学校出身の高校生お姉さんたちによる息の合った鉦、笛、太鼓の囃子から始まる。
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そして中学生と高校生男子2人による神楽奉納。颯爽としていてみんな上手い!
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岩永小学校は男子5人(6年・5年各1人、4年が3人)だけの小規模校だ。昨年、学校の近くにある長岩城の歴史や今に残る石積みなどについて協力してまとめた研究テーマ「九州最大の山城 長岩城を辿って」が、「第10回小学生・中学生『城の自由研究コンテスト』」で文部科学大臣賞に次ぐ日本城郭協会賞を受賞した。1月に東京であった授賞式には5人全員で出席したそうだ。
5人の生徒がその研究発表をしてくれた。
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クイズや五七五を取り入れて聞く人を引き込んでいく。5人ともよく覚えており、次々と交代しながらハキハキと発表する態度は立派で大いに受けました。
こんな小規模校だが学校や地域が5人の子供たち(神楽の中高校生も)をいきいきと育てている。きっと素晴らしい大人へと成長していくことだろう。
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講堂に掲げてあった校歌。まさに3番を実践している。
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長岩城の歴史について案内人の女性により紙芝居も行われた。
本日の参加者には野仲氏や宇都宮氏、そして黒田氏もいて皆さんで握手しあって交流を楽しみました。
立っている人たちは宇都宮氏と野仲氏の末裔のみなさん。
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そして…Yさんより参加者の皆さんへ「第9回み仏の里くにさきウオーキング(5月13日(日)に同じ時代背景の武蔵町吉弘城の歴史を巡るウオーク)」について持参したダイジェスト予告チラシを配布し、紹介する機会を与えていただきました。
最後に保存会会長さんの挨拶。(後ろより)
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岩長林業の里交流会から記念樹(金柑の苗木)をいただいて帰路に就く。
Yさん、実行委員会の皆様、ありがとうございました。

この日は春一番の暖かい朝でした。 土筆が一つ顔を見せていた。
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by jinashi | 2012-03-20 10:32 | 大分県の山歩き~その他の山 | Comments(2)

3月句会
兼題~当季雑詠  講師~河野輝暉
 一呼吸置いてくしゃみの遠電話      ともゆき
 沈丁花蕾は香り整はず           きぬこ
 海浜に踊る波風春のまね         和子
 税申告終えて童の心かな         ふよこ
 咳すれば母の声する肺の中       やっさん
 秒針のコツと一分二月果つ        ふじこ
 銀めしに蕗味噌昭和遠きかな       ひさえ
 がれき中風鈴奏で鎮魂音         清和
 春愁をエアータオルに解き放つ      じなし

平成9年9月に開講した「楽習館くにみ俳句」はこの3月句会をもって閉講となった。
当初は19人で発足した句会も多い時には27人の生徒が集い楽しんだのだが…現在は9人となり寂しくなっていた。講師河野輝暉先生の開講時のお歳は62才であったが、じなしは先生のその齢を越えた。
毎月4~5句の投句を15年続けたので単純計算で750句ほどをひねり?出したことになる。そして世に出なかった出来損ない句はその何倍にもなる。
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最初の平成9年10月句会にじなしが初めて作った句012.gif
  秋立つや口紅赤き魚売り    (互選4点)
  法師蝉父より継ぎし出刃を研ぐ ( 〃1点)

 この2句は講師より「今月のベスト10」へ入れてくださいました。

日々に追われるばかりで余裕もなく、なかなか「俳バージョン」とはなれません。〆切が迫ってきて頭を抱えることを繰り返していました。
さまざまな俳句大会が次々と行われていますが(良い句が出来ないこともあり)くにみ句会以外に投句したことはほとんどないのですが、平成23年5月14日の大分合同新聞夕刊の「大分のうた」に河野先生の選出でこの句を載せて頂きました。いつも句会の準備をしてきたので「ご苦労さん」ということで載せていただいたのでしょうが、嬉しかったです。
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  六郷の谷は弓反り鳥歸る
この句はじなしの住む伊美という地名は「谷が弓反りになっていることからかもしれない」と文化財の先生に聞いたことからです。
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休憩時間に教育委員会生涯学習担当の冨松さん、岩本さんが「長い間ご苦労様」とご挨拶に来てくれました。
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講師の河野輝暉先生と最後に残った9名の記念写真。
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 最後に先生が即興で詠んだ句~
  お別れは逢いの初めや桜餅
そして先生の最後の言葉は「死ぬまで出来るのが俳句」でした。
河野輝暉先生は宮司職と合わせて市文化協会長、大分県現代俳句協会会長や大分合同新聞読者文芸の俳句選者などでお忙しい毎日ですがこれからもご健康で益々のご活躍をお祈り申し上げます。
by jinashi | 2012-03-15 18:10 | くにみ句会 | Comments(4)

 ふきくさ山(1309m) 由布市阿蘇野~花牟礼山系の山(大分百山)

前夜は国東半島エコツーリズム研究会のメンバーが集いYさん手作りの豪華ジビエ料理を堪能する。その前日も某所でゴチに預かり2日続きのお酒の夕べは少し調子に乗りすぎたようだ。
で、今日は少し朝寝をしてしまったので、短いところで…由布市庄内町男池近くのふきくさ山へ登ってみよう。
山香町→湯布院塚原へ入ると何と、内山の山頂部は雪景色となっている。→城島遊園地→庄内→男池→から千町無田に向かい別荘地の看板を右折してダート道を入りゲートのある「ふきくさ山」登山口に着いたのは11時を過ぎていた。

「ふきくさ山」は「ながみず山」とともに崩平山(くえんひらやま)から花牟礼山(はなむれやま)に連なる山系に位置する花牟礼山塊の一座だ。「大分の山・登山記」辻本さん2006・5・27を参考にして初めてのコースを歩く。
ゲート手前に車を止めて歩き始める。11時17分。ゲートの標高は≒940m
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滑り止めの溝が掘られたコンクリートの林道を行く。植林の上にふきくさ山の山容を望む。
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何度かカーブを繰り返したら右カーブの内側に小さなテープを見つけて山へ取り付く。スタートから15分ほどの地点。
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フラットな作業道を行くと大きく左に曲がる内側にテープを見つけて広い尾根へ上がる。テープを辿りながら踏み跡もない荒れた植林帯を登っていく。
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1100mあたりから雪が現われてくる。さらに勾配が増して滑りやすく苦しい急登が続く。
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1200mを過ぎると勾配も緩んで雪山の様相となる。強風が木々の雪を吹き飛ばしてそのシャワーを浴びながら予想外の雪の尾根道を楽しみながら歩く。
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樹氷も現われてきた。
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1300mピークあたりから左手が開け崩平山も望める。雪を蹴ってすこし下りゆるやかに登り返すと足元に2等三角点がある狭い山頂に着く。12時51分。
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積雪は10㎝ほどあるかな。「大分高専山岳部」の古い鉄板山名標識もある。
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失礼して2等三角点の上に腰かけさせていただき、エクレアと熱いコーヒーで温まる。
山頂はほとんど眺望がないのですこし先まで行ってみる。(東側にも登山路があるようだ)
東方に「ながみず山」らしきが望める。
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山頂へ戻り往路へと下山をはじめる。急坂の植林帯は尾根が広くルートが分かりにくい。(テープも少ない)すこし迷うところもあったが無事に下山することが出来た。
14時ちょうどにゲートへ戻る。下山は50分ほど。
 GPSコースマップ(拡大します)
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帰路にやまなみハイウエイ朝日台の農家レストラン「ベべんこ」から見た「ふきくさ山」。
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下山時に林道脇で見つけた「蕗の薹」。むかしのかな書きでは「ふきのたう」と書く。
(このあと拉致されて・・・天ぷらでした)
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帰路に男池へ立ち寄る。清掃協力金100円を払って男池周辺を探索する。
今年は梅の開花も遅れたようだ。さらにこの寒波で山の花もゆっくりしていることだろう。
まだ1か月早いだろうとは思ってはいたが…「雪割一華」の蕾を見つけた。
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大岩を咥えたケヤキ?の大木。
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この日は東北大震災から1年。帰路のカーラジオで政府主催「震災1周年式典」中継を聞く。宮城県の遺族代表、石巻市の奥田江利子さんの怒り、悲しみ、絶望から孫の誕生により希望へとつなげていく言葉には運転しながらも涙がこぼれて来ました。
夕刻の大田村あたりでは雪模様となる。今夜は寒くなりそうだ。
by jinashi | 2012-03-12 22:08 | 大分県の山歩き~くじゅう山系 | Comments(2)

 現地マップ

野津のキリシタン墓地
昨年には臼杵市野津町にある下藤キリシタン墓地が発掘調査され多くの遺構が見つかっている。
国内最大規模といわれるこのキリシタン墓地の現地説明会が行われることを新聞で見て出かけた。

野津町中心部からまだ新しい野津中学校横を通って10時30分ごろ小雨のぱらつく吉四六ランドへ着く。吉四六ランドには商工会青年部ソフトボール大会以来26年?ぶりとなる。
受付を済ませて待機するマイクロバスに乗る。10時から順次現地へ出発しており、15人ほどが乗った私たちのバスは4~5組目?となるのだろうか。
5分ほど走ったところでバスを降りる。タバコの植え付けを待つビニールが並ぶ広い圃場の横を歩いて現地へ向かうと見学を終えてバスへ戻る人たちとすれ違う。
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下藤のキリシタン墓地へ着く。先の組が説明を聞いている。
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少し待ってから私たちグループの番となる。
本日説明してくださるのは臼杵市教育委員会文化財課の神田高士さん(手前)。
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野津町キリシタンの歴史(以下は説明会資料より)~
天正6年(1578年)野津院の代官「りんせい」という老人が洗礼を受け「リアン」という洗礼名を授かる。リアンは自分の屋敷に教会を建立し、裏山にはキリシタン専用墓地を造り熱心に布教に努める。記録によると、洗礼から6年たつと9000人もの人がキリシタンとなっていという。天正8年(1580年)にはイエズス会の司祭館が置かれ、野津院はこの地方の布教の中心となり、十字架が14基も立てられた。
野津地方にはいくつかのキリシタン墓地といわれる場所があるが学術的調査により明らかにされたのは下藤地区共有墓地が初めてだ。全国的にもほぼ完全なキリシタン墓地は初めてで、これまで十字架の入った墓碑や「INRI」銘の入った石造物が発見されている。


最初に昨年度発掘された54基の墓標の中から移動した(発掘のため)一つの石組遺構について解説してくれました。
使われた石は仏教墓標やその辺にある石を組んでいる。中には割れた(割った?)石臼も利用されている。(当時キリスト教では仏教墓も相応の時がたてば供養は終えていると理解し、墓標として利用したらしい。)
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南側からみた墓地。手前から順に規則的に配列して埋葬されている。
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仮設の歩道へ移動して全体の説明を聞く。
最大のもので長さは2.5m×1mほどの長方形であり寝かされて埋葬されている。(それまでは屈葬が中心)
発掘中の石組遺構の下からは(棺桶?の)釘が出てきている。もっと深く掘ればクルスなどが出るかもしれないという。
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礼拝堂の跡とみられる礎石建物跡。埋葬の時に祭祀を行ったところか?
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礼拝堂へ続くスロープの道。
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昭和31年に見つかった墓碑。
馬の鞍のような石の塊で花十字紋と「常珎(じょうちん)」という洗礼名が刻まれている。
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平成11年にはここの竹藪の片隅でINRIと刻まれた石が見つかっている。これはキリストの十字架の上に掛けられた「罪状書きの言葉(罪標・すてふだ)」であり、石造十字架の一部ではないかと想像されている。
  ~ 国東にも「INRI」と刻まれた自然石が見つかっている
   「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」  ラテン語で「iesus nazarenus rex iudaeorum」

  北から見た墓地全容。
手前が低く墓標も新しい。使われている石材もあちこちから集められている。
青い屋根の小屋に常珎(じょうちん)墓碑がある。その手前に円型の石敷広場があり、手前から石敷きの通路が通じている。円型広場はミサを行ったところなのだろうか。
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常珎(じょうちん)墓碑のすぐ上にある屋根石に彫られた「干十字紋」。
左が少し欠けている。
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神田さんの分かりやすい説明でこの墓地の状況を知ることができました。
臼杵市教育委員会では平成22年度から始まった発掘調査は25年度まで行われるようです。また新たな発見を期待したいものです。


帰路に係りの人から聞いて野津のR10号横の「寺小路磨崖クルス」(干十字紋)に立ち寄る。ちょうど地元の文化財の先生等と一緒になりお話を伺いました。
昭和の初めに発見されるまで磨崖クルスの彫られた面が地面に伏せられていたため残っていたらしい。
上部にはINRIがあったのかもしれない。
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国道を挟んでこのクルスと反対側には大友家第20代当主大友義鑑(よしあき)の墓地がある。(看板はあるが民家の中を通っていくなどわかりにくい)
キリシタン大名と言われた大友義鎮(よししげ・宗麟)の父となる大友義鑑は、天文19年(1550年)2月10日に起こった「大友二階崩れの変」により重傷を負い、その2日後に没している。
義鑑が建立したという野津院の到明寺(とうめいじ)に葬られた。石室は後年になって造られたもの。 
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大友二階崩れの変(wikipediaより)
大友氏第20代当主・大友義鑑は、正室の子である義鎮を嫡男と決定していたが、側室の子である三男の塩市丸を後継者としたいと考え、義鎮を廃嫡しようとしていたとされる。
このため、大友氏内部では義鎮派と塩市丸派に分裂し、互いが勢力争いを繰り広げていた。義鑑や塩市丸の生母は、塩市丸の後継を実現するために寵臣の入田親誠と共謀して、斎藤長実ら義鎮派の主要人物を次々と誅殺していった。1550年(天文19年)2月、津久見美作、田口新蔵人ら義鎮派の一部が、大友館の2階で就寝していた義鑑と塩市丸、そしてその生母を襲撃した。この襲撃によって塩市丸とその生母、義鑑らの娘2人らが死亡した。津久見・田口の両名はその場で斬られたが、義鑑も数日後に受けた傷がもとで、領国経営に関する置文を残して死去。義鑑の死後、大友氏の家督は戸次鑑連ら家臣に擁立された義鎮が継承した。塩市丸派の入田親誠は肥後の阿蘇惟豊を頼って逃亡するが、事件後に阿蘇氏によって討たれた。事件後に義鎮は襲撃実行者を処罰したが、1553年(天文22年)には服部右京亮らの家臣が義鎮を暗殺しようとする計画が発覚しているなど、家中は不安定な状況が続いた。義鑑の義鎮廃嫡については、義鎮の生母は公家の坊城家の娘、あるいは大内義興の娘とも言われ、家中からの大内氏の勢力排除のために計画された事であるとも考えられている。二階崩れの変は、一般的には追いつめられた義鎮派の一部による暴走であると考えられているが、義鎮が影で動いていたとも言われている。現代においては筑前琵琶などを通じて知られる。


大友義鑑(よしあき)の墓へ詣でたのでこの際、キリシタン大名と言われた21代当主大友宗麟の墓を訪ねてみることにする。
臼杵から津久見へ入り津久見高校前を通って左へ狭い石畳の道を行けば宗麟公園の駐車場に着く。
大友宗麟は島津との戦いに敗れたあとは勢力も衰退し天正15年(1587年)に津久見で没する。享年58歳。
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昭和52年に、元大分市長上田保氏を発起人として「大友宗麟公顕彰会」が結成され磯崎新氏の設計により建てられたキリシタン式の墓。
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仏式の墓もある。
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教名はドンフランシスコ。宗麟を象徴する花押。
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昼食は津久見「浜茶屋」の海鮮丼。 1200円。
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じなしの町の偉人「ペトロカスイ岐部神父」~日出町の家老「加賀山半左衛門とデイエゴ」、「ザビエル鹿鳴越」の道~大友宗麟にかかわる「府内のキリシタン史跡や遺品」~ここ野津の「キリシタン墓地」~(津久見の大友宗麟墓地)~湯布院キリシタン墓群~長湯温泉の「ハルのキリシタン墓碑」~竹田の「洞窟礼拝堂」など大分県にはキリシタンの遺跡が(特に南北に)連なります。
これら歴史遺産を掘り起しストーリーのある「豊後キリシタン巡礼の道」さらには長崎までの「九州巡礼の道」を提案しゆっくりとコースを辿っていただくことで観光交流による地域の活性化に繋げていくことが出来るのではないかと思います。

※ペトロカスイ岐部神父、日出藩家老加賀山半左衛門とその子デイエゴは2008年11月に「福者」に列せられています。
by jinashi | 2012-03-06 21:27 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(4)

風師山(かざしやま・362.2m)  旧九州百名山

R社の「健康フェア」に出かけた。会場は小倉の西日本総合展示場。
各ブースでは超高齢化社会を迎えてさまざまなイタレリツクセリ新商品が並んでいる。低迷する日本経済だがこのような(ヘルシー&ビューティー)分野で世界をリードしていけそうな思いがした。

 皿倉山へ
昼前に会場をあとにして八幡の皿倉山へ向かう。途中のR3号線から見る皿倉山。
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ケーブルカー「はるか号」に乗る。(もう一つは「かなた号」)駐車場近くに登山口があるが今日は観光気分。
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山上駅からは2007年暮に開業したスロープカーに接続、10分足らずで山頂の展望台駅に着く。標高差500mほどを登ってきた。放送局のアンテナが林立する山頂には展望レストランや山頂広場がある。
山頂広場にある九州自然歩道元標。ここから総延長2587㎞の九州自然歩道が始まる。
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元標の裏には~
「自然歩道の効用は、体力をつくること、もう一つは自然に親しむことである。将来自然歩道で体力増強のための競技が行われることがあれば、大変不幸なことだが、そのときはちゅうちょなく一番遅かった人に賞を与える。」
(長距離自然歩道提唱者ベントン・マッケイの言葉)

この言葉に反するように香春町の牛斬山から福智山を経由してこの皿倉山まで約25Km〈を走る・歩く〉のトレランイベント「カントリーレース」が毎年行われているようだ。
山頂からの夜景は日本三大夜景「北九州100億ドルの夜景」だという。
見下ろす洞海湾と若戸大橋方向。この橋ももう半世紀。
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小倉の足立山方向。
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寒いので山頂休憩室で弁当をいただいてからスロープカーに乗る。下りのケーブルカーもはるか号。
大人往復1200円。

 風師山へ
R3を門司港へ向かう。JR門司港駅横の門司税務署前信号から清滝公園へ向かう。公園を過ぎてさらにくねくね登って行き止まりが風師山(かざしやま)登山口だ。駐車場もある。
登山靴に履きかえて山歩きバージョンへ。
14時42分。ここの標高は≒300m。
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登山口からは丸木階段を登る。小さなピークから前方に風師山など3つのピークが見えてくる。
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左に展望所があり、関門海峡から周防灘方向を望む。
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登山口から500mほど歩き分岐を右へ進めばすぐに風頭山(かさがしらやま)に着く。岩の間を入るとフラットな展望所に出る。標高364.3m。
ここからすぐ下に関門海峡や北九州、下関の街並みが絶景だ。「うわー…」と声が出る。
目の前の巌流島(船島)と下関彦島方面。先には六連島(むつれじま)や藍島(あいのしま)が。
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海峡の向こうに先ほどケーブルカーで登った皿倉山。
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ここから企救(きく)自然歩道を歩いて足立山登山口まで縦走することができるようだ。
→風師山→矢筈山→(羽山町~寺内町)→戸ノ上山→大台ケ原→谷山→足立山→妙見山→砲台山→妙見神社登山口へと続くコースだ。   距離は≒20Km。健脚の人でも9時間はかかるらしい。
向うに戸ノ上山や足立山が。手前は矢筈山。
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こちらは下関の水族館「海響館」やカモンワーフ、唐戸市場方向。
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山頂には吉井勇の歌碑もある。 「風師山登りて空を仰ぐとき雲と遊ばむこころ起こりぬ」
早朝登山で1000回を達成した人の句も。 「山よ友よ」
先の分岐に戻り風師山へ向かう。風頭山からみる風師山。
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丸木の階段を一旦下って登り返すと電波反射板のある風師山の山頂だ。ここもフラットな草原だが見晴は風頭山の方が良い。
山頂写真。15時22分。
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南峰まで行ってみる。同じように下って登り返せばNHKアンテナの立つ南峰に着く。景観はない。
企救自然歩道には真新しい指導標が立つなど整備が進んでいる。
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ここから往路を引き返す。25分ほどで登山口へ戻る。15時55分。
1時間ちょっとのミニピクニックでした。
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風師山GPSルートマップ。(拡大します)
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 和布刈公園へ
本日最後の目的地は門司港の和布刈(めかり)公園。めかり山荘下の駐車場へ止め、山道を歩いて門司城跡に上がる。平知盛が源氏との合戦に備えて築城させたという。
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和布刈公園の下には、新幹線トンネルや国道・人道関門トンネルなどが通り交通の要所となっている。
門司城から見る関門橋。
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和布刈公園から一方通行を下っていくと長さ44mの源平合戦タイル壁画がある。
赤間神宮の社宝「安徳天皇縁起図」を参考にして源平合戦の様子が有田焼の陶板で描かれている。
(以下は説明板より)
真ん中右寄りの大きな唐船は平家の擬装船で、これに安徳天皇が乗っている御座船に見せかけ、源氏軍がこれをめがけて襲ってきたところを包囲し全滅しようという作戦だった。
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小さな御座船に乗る安徳天皇、母の建礼門院(清盛の娘)、祖母の二位尼(清盛の妻)。
この後、二位尼は安徳天皇を抱いて海へ身を投げる。
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建礼門院も追って身を投げるが源氏に救われて京都に送られ尼となる。
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源義経の八艘飛び。
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この戦いがあったのは寿永4年(1185年)3月24日卯の刻(午前6時ごろ)。4000余の船が源氏は白、平家は赤の旗印をなびかせて合戦を繰り広げた。
戦い半ばにして早鞆の瀬戸に突如いるかの群が出現した。いるかの様子で吉凶を占ったところ、平家に凶とでた。当初は平家優勢と見られたが夕刻には平家の敗北は決定的となった。
 「おごれる人は久しからず唯春の夜の夢のごとし」
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壇ノ浦近くの関門海峡。渦を巻いて潮が流れている。表示は今「東へ7ノット」。
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壇ノ浦の戦いがあった3月24日(土)には国東市安岐町糸永の光蓮寺(冨永六男住職)で「薩摩琵琶による平家物語奏上」が予定されている。15時より
by jinashi | 2012-03-01 10:31 | 福岡県の山歩き | Comments(5)