カテゴリ:ペトロ岐部とキリシタン史( 26 )

早い時間に下山したので雲仙温泉「よか湯」で朝風呂に浸る。
午後は天草四郎率いる島原の乱の舞台となった原城址とペトロカスイ岐部が学んだ有馬のセミナリヨ跡を訪ねてみよう。

(南島原市マップ 赤~原城跡 青~セミナリヨ跡)


天草四郎率いた原城址へ
R251を半島先端の口之津へ向かって南下する。途中何度かキリシタン墓の案内板を目にし、キリシタン大名有馬氏の歴史ゾーンを感じる。南有馬町乙から標識を見て海岸部へと左折、道なりに進んで原城(はらじょう)跡へ着いた。
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元和の一国一城令で廃城となった原城は、1637年(寛永14年)に全国の耳目を集めることとなった。世に言う「島原の乱」が勃発したのである。島原藩主松倉重政・勝家父子は島原城建設による出費などの財政逼迫により苛政を敷き、また、過酷なキリシタン弾圧を行ったことにより農民一揆を引き起こした。この一揆は島原半島のみならず天草にも飛び火し、島原城・富岡城が襲撃された。しかし、一揆の攻城はうまく行かず、やがて一揆の群衆は天草の一揆群衆と合流し約3万7千人が廃城となっていた原城に立て籠もった。 小西行長の家臣の子孫といわれる天草四郎を総大将とし、組織だった籠城戦を展開し幕府軍と戦闘を繰り広げた。 一揆側は3か月に及ぶ籠城には兵站の補給もなく、弾薬・兵糧が尽き果ててきた。対する幕府軍も1千人の戦死者を出しながらも新手を投入し、ついに1638年4月11日から12日(寛永15年2月27日から28日)にかけての総攻撃で一揆軍を壊滅させ、一揆軍は(幕府に内通していた一名を除いて)老人や女子供に至るまで一人残らず皆殺しにされたという。幕府軍は戦後、原城を徹底的に破壊した。その一方で、島原藩主松倉勝家は苛政により乱を引き起こした責任から、大名としては前例のない罪人としての扱いである斬首に処せられた。(wikipediaより)

三方を海に囲まれた岬にある原城址。本丸があり、天守閣が建っていたという。
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当時15歳の天草四郎にどうしてそのようなカリスマ性統率力があったのか?
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島原の乱のあと、城址は幕府軍により徹底的に破壊され、一揆軍の死体も一緒に埋められたようだ。石の下から多くの人骨が出てきたという。
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桜の古木の下にある天草四郎の墓
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海に向かう天草四郎石像。
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ペトロカスイ岐部を偲び有馬セミナリヨ跡へ
原城址を離れ、R251を戻るようにして市役所北有馬庁舎へ着く。
庁舎に車をとめて前の高江川に沿って歩く。有馬川と出合う手前にある「有馬川殉教地」。
棄教を拒否した有馬直純(有馬氏2代目日野江城主でキリシタン大名。洗礼名ミゲル)の重臣とその家族の8名が2万人以上の信徒が見守る中、見せしめの火刑となり殉教した。その中には11歳の少年もいた。
8人は2008年11月にペトロ岐部と187人の福者として列せられている。
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かつて城下町として栄えたであろう昔の街道を横切り、日野江城址に向かう途中に有馬のセミナリヨ跡がある。
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イエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関であった有馬セミナリヨ(※高等教育機関はコレジオという)は1580年にキリシタン大名有馬晴信のもとに開かれている。地理学、天文学、語学(ラテン語)、宗教、美術、音楽など当時最先端の西洋式教育がなされたようだ。
当時の建物の様子。多い時には100名以上の生徒が学んだという。
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1期生には天正十年(1582)より遣欧少年使節団としてヨーロッパ諸国へ派遣された伊東マンショ、原マルティノ、中浦ジュリアン、千々石ミゲルの4名がいた。大友宗麟の名代として主席正使をつとめた伊東マンショは帰国後謁見した秀吉に仕官を勧められたが、司祭になることを決めていたためそれを断った。
(右上が伊東マンショ)
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9年前、じなしがイタリアを旅したときにガイドから「天正遣欧使節団の4少年たちがヴェネツィアのドッカーレ宮殿やフィレンツェのヴェッキオ宮殿を訪れた初めて日本人です」と聞いたことを思いだした。
また使節団はグーテンベルク印刷機(活版印刷機)を日本に持ち帰っている。

そして1600年、ペトロカスイ岐部が入学。
帰国した伊東マンショ(当時31歳?)らから薫陶を受けている。このセミナリヨで5年間学ぶ中で深い信仰、強い信念そして実行力を身につけたのであろう。
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近くにある青面金剛庚申塔。聖母マリアがキリストを抱いているように見える。
島原の乱から40年余り後に建立されたようだ。
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13歳のペトロ岐部が豊後浦辺よりこの有馬へどのような道を辿ってきたのだろうか? 
同郷人としてこの地を訪れ、4百年の時空を超えて感慨深いものがあった。

by jinashi | 2013-03-13 13:07 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(8)

国東市では日本を代表するキリシタン、ペトロカスイ岐部生誕の地としての活性化事業をすすめている。
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このほど三河市長が提唱者となり日出、大分、臼杵、津久見、竹田の6市町村との間で「キリシタン南蛮文化交流協定」を結んだ。これはキリシタンや大友宗麟の南蛮文化遺跡などが残る自治体が連携協力をすすめることで、地域振興、観光振興の活性化につなげようとするものだ。

そのような中、郷土の偉人ペトロカスイ岐部の並みはずれた生涯をバロック音楽とナレーションでたどる音楽会がくにさき総合文化センター(アストくにさき)で開催された。「ペトロカスイ岐部の生涯」と題した音楽会はNPOおおいた豊後ルネッサンスの日野直子さんがプロデュ―スしている。日野さんは元HNKアナウンサーとして「朝のバロック」などの番組を担当された。
(くにさき総合文化センターの垂れ幕~この日は風が強かった)
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昼の公演には市内の中学生全員(と小学生の一部?)が招待されている。子どもたちに一流の音楽を体感させ、あわせてペトロカスイ岐部という郷土の偉人を知ってもらうための音楽会でもあった。

昼には雪が舞う厳しい寒さのこの日、夜の公演の来場者が心配されたがまずまずの人出で主催者実行委員も一安心というところでした。
始まりには国見ふれあいコーラスによる「アベマリア」と木下龍太郎作詞・船村徹作曲「道標(みちしるべ)」のきれいなハーモニーを聴かせてくれた。
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演奏(古楽アンサンブル)はアントネッロ、歌は弥勒忠史さんほか、タンバリンは田島隆さん、琵琶の川島信子さんなど…。
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朗読は国東市在住の声優猪股正明さん。
(朗読の猪股正明さんの熱演)
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終了時には観客の皆さん一同にとても感動されたようでした。
リーダー濱田芳通さんのジャズのようなリコーダー演奏、カウンターテノールの弥勒忠史さんの素晴らしい歌声、マジシャンのような田島隆さんのタンバリンなどにすっかり魅了されました。
(この音楽会のパンフレット。すこし内容が分かりにくかったかも?)
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この日音楽会に先だって鎌倉市在住の洋画家村田佳代子さんより絵画2点が国東市へ寄贈された。
(左に三河国東市長、右村田佳代子さん)
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先月16日より同所で開幕している絵画展「ペトロカスイ岐部の生涯展」には村田佳代子さんが大分県先哲史料館に寄贈した絵画20点が展示されている。
この作品展は、2008年11月に国見の歴史と文化を高める会がおこなった「ペトロ岐部の列福を祝う集い」でも、村田佳代子さんをお招きして国見町のふるさと展示館で開催されている。
by jinashi | 2013-02-12 16:09 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(2)

2008年11月には長崎市でローマ教皇(代理)をお迎えして日本初の列福式がとり行われ、ペトロ岐部と殉教者187名が(聖人に次ぐ位の)福者となる。
同月、出身地国東市国見町の「国見の歴史と文化を高める会」では列福にあわせて「ペトロカスイ岐部神父の列福を祝う集い」を開催している。
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本日、7月4日はペトロカスイ岐部が江戸で厳しい拷問を受けて殉教したといわれる日だ。
没後373年となるこの日に高める会主催の「ペトロカスイ岐部を聖人にする集い」が開催された。「祝う集い」に引き続いて岐部の功績を学び、地元住民による顕彰活動を継承し列聖をめざすためのものだ。
ペトロカスイ岐部についての詳細はこちらへ
       ↓
  ペトロカスイ岐部

会場は国東市国見町の生涯学習センターみんなんかんホール。
受付がはじまる。
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高める会事務局長の開会のことば
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国見の歴史と文化を高める会、土谷会長による主催者あいさつ
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国東市三河市長のご祝辞
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国東市議会清國議長のご祝辞
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大分県議会小野議員のご祝辞
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大分県東部振興局地域振興部横松部長ご祝辞 
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国東市山本教育長ご祝辞
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大分教区パウロ浜口司教ご祝辞
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講演はNPOおおいた豊後ルネッサンス理事長の日野直子先生。
日野直子先生は大分県出身で早稲田大学卒業。元NHKアナウンサー。
ふるさと大分が発祥といわれる西洋音楽など南蛮文化の紹介を通じて大分文化の発展を目指す活動をされています。
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演題は「ザビエルと宗麟~そしてペトロ岐部」。
偉大なるペトロ岐部の故郷住民としてもっと自信をもって発信すべしとのお言葉を頂きました。
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講演を聴く参加者のみなさん。
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地元国見ふれあいコーラスによる歌唱。
数年前まで秋に行われていた「ペトロカスイ岐部神父殉教際」には毎年出演していました。きれいな歌声を聞かせていただきました。
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4年前の「祝う集い」では記念講演をしていただいた鎌倉市の画家、村田佳代子先生より頂いたメッセージが披露される。

 村田佳代子先生 メッセージ(原文のまま)
  
   ペトロ岐部と187名の殉教者の列福の決定がバチカンから発表され
   たのは2007年2月のことでした。列福式を日本国内の何処で行うか
   調整に時間が掛かり、結局2008年11月24日長崎において雨の中
   列福式が開催されました。国見のふるさと史料館では11月1か月間
   ペトロ岐部の生涯を描いた私の作品を展示してくださいました。
   イベントにもうかがい、ペトロ岐部の生涯に対する思いを講演させ
   て頂きました。
   ペトロ岐部は単に宗教上の偉人としてだけでなく、勇気と実行力と
   強い責任感を持った国際人として、日本史のみならず世界史の上で
   も燦然と輝く人物です。国東市の皆様が今後ペトロ岐部の列聖を目
   標に活動をお続けになるとの事、大いに期待し応援させて頂きます。
   今回のイベントのご盛会を心よりお祈り申し上げます。
                7月4日 
                           村田 佳代子


国見中学校3年、丸小野翔君によりふるさとメッセージが読み上げられました。
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 ふるさとメッセージ
私たちの住む国見町には世界に誇る偉人がいます。その人はペトロカスイ岐部神父です。400年ほど前、日本人で初めてローマに行き司祭になった人です。死を覚悟してキリスト教を広めるために信念を貫きました。2008年には福者(ふくじゃ)に列せられました。
私たちは豊かな郷土づくりのためペトロカスイ岐部神父を誇りに思い、聖人に列せられるよう顕彰活動を続けていきたいと思います。

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高める会、矢野副会長より閉会の言葉。
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終了後、日野直子先生、三河市長を囲んで実行委員会スタッフの皆さんと記念のショット。
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前日には日田や耶馬渓で豪雨災害が発生するというほどの梅雨さ中にもかかわらず市内外から多くの皆様にご参加をしていただきました。
(画像提供~Y.Ikeda氏)
当日の配布資料
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じなしの町の偉人「ペトロカスイ岐部神父」~日出町の家老「加賀山半左衛門とデイエゴ」、「ザビエル鹿鳴越」の道~大分市殉教公園や大友宗麟にかかわる「府内の南蛮文化やキリシタン遺品」~野津の「下藤キリシタン墓地」~(津久見の大友宗麟墓地)~湯布院キリシタン墓群~長湯温泉の「ハルのキリシタン墓碑」~竹田の「洞窟礼拝堂」など大分県にはキリシタンの遺跡が(特に南北に)連なります。
これら歴史遺産を掘り起しストーリーのある「豊後キリシタン巡礼の道」さらには長崎までの「九州巡礼の道」を提案しゆっくりとコースを辿っていただくことで観光交流による地域の活性化に繋げていくことが出来るのではないかと思います。

by jinashi | 2012-07-12 13:04 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(2)

梅雨本番となり今日は午後から強い雨の予報も出ている。天気が良ければあの山にあの花が…などと思っていたが予報どおりの雨で今日一日はまとまった雨となりそうだ。
大分オアシスタワーである〇△セミナーへ出席するママのアッシーを務めたら、その後に大分周辺のキリシタン遺跡を訪ねてみよう。

ママを降ろして最初に向かったのは「大分県キリシタン殉教記念公園」。
明野東交差点からを高田方面に1.2Kmほど行った葛木の県道21号沿い(ドラッグノザキの隣)にある。
大分市葛木「キリシタン殉教記念公園」

入口にクルスと看板が立つ。
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公園の奥にある「殉教記念碑」。レリーフには厳しい迫害にも屈せず信仰を貫いた様子が描かれている。
建立されたのは昭和45年。当時の大分市長上田保氏による。上田保氏は敬虔なカトリック信者で当時、国見のペトロ岐部神父立像建設の名誉会長にもなっている。
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大友宗麟の保護の元、(とくに東部や南部に宣教師が入り教会がたてられるなど)早い時期に広まった豊後のキリスト教だが、秀吉による伴天連追放令や禁教令によりその反動も大きく「豊後崩れ」といわれる厳しい弾圧がおこなわれたようだ。ここ葛木一帯では200人もの殉教者があったという。
傍にある句碑。
 殉教の薄暑の葛木悼(いた)まばや  足立・・
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殉教公園を後にして雨の中を鶴崎高校の近くにある「毛利空桑(もうりくうそう)記念館」へ向かう。
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どんな人なのか…じなしは知りませんでした。
空桑は幕末から明治初期にかけて活躍した尊王の儒学者、教育者。
脇蘭室(鶴崎)や帆足万里(日出)に学び、私塾「知来館」を開く。「文武両道」を信念とし多くの門下生を育てた鶴崎地方の偉人。

館長のAさんに高田地区にあるという紀新太夫行平と緒方三郎惟栄の墓について聞いてみる。緒方三郎の墓については知らないそうだ。
A館長におおよその場所を聞いて高田地区にあるという紀新太夫行平の墓を訪ねる。
雨脚も強くなった中、関園地区でそれらしき遺構を探していると畳屋のおじさんが軽四で帰宅してきた。尋ねるとなんと!墓はおじさんの家の裏にあったのだ。
そして、おじさんはじなしの同級生の兄のT畳屋さんと古くからの知り合いでした。
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紀新太夫行平~1144年(天養元年)相模の国の生まれと云われている。成人して修験者となり英彦山に入山、刀匠源(げん)正房(しょうぼう)定秀(さだひで)(紀太夫)の後継者として紀新太夫と名乗る。平氏滅亡により関東は下野(しもづけ)の国利根荘へ流刑されるが頼朝死亡により九州へ下向。国東伊美郷住し、後に大分の高田に居を定める。豊後刀鍛冶の祖と云われ肥後細川家の永青文庫(東京目白)所有の太刀は国宝に指定されている。
晩年はこの地で弟子を育成しながら過ごしたという。
「刀匠紀新太夫行平ノ墓地」の標柱も立っている。
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承久三年(1222年)に没したようだ。戒名は「實相顕徳院鐵山玄運秘定門」か?
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次にネットで知った上戸次の「花香キリシタン墓群」に向かう。
松岡から県道206を行き白滝橋手前のR10を横切って竹中へ向かう。途中フッと思い出して竹中の旧道へ入る。
向かったのは歌手・南こうせつさんの実家の勝光寺。
前の郵便局に車を止めて山門へ向かう。こうせつさんとじなしは同年なのだ。
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勝光寺は元天台宗の歴史ある(禅宗・曹洞宗)お寺さんでした。
本堂へお参りをして境内を見ていると優しそうな男性から声を掛けられる。その方はこうせつさんのお姉さんのご主人Tさんでした。
この日はこうせつさんのお兄さんである住職の南慧昭(みなみえしょう)さんはお出かけで、ふたりで留守番をされているところでした。
山門を入って右手の鐘楼にはこうせつさんが「神田川」の大ヒットのあと寄贈したという梵鐘があります。鐘楼には戦争で供出したため鐘がなかったのです。寄贈された鐘は「しあわせの鐘」といわれている。
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庫裡にいたお姉さんもご一緒になりこうせつさんが子どもの時の昔話などをお聞きしました。
本堂裏に1年ほど前に開堂した納骨堂「勝樹苑」を特別に見せていただきました。
納骨堂祭壇の観音菩薩後の絵はこうせつさんがあっという間に描いたという絵です。ふるさと竹中で過ごした子供時代の想い出が詰まっています。大野川の河童や蛇、枝垂桜や由布岳も描かれています。
絵の題は「春のうた」。
音楽だけでなく絵の感性も違いますね。
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天井には花の絵が並んでいます。福岡市の人形絵師佐藤好昭さんが彩画をしています。センターの24コマは勝光寺ファミリーゾーン。
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右端にはこうせつさんの梅。
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左端に(長女の)Tさんご夫婦の南天? その横中央に今住職の南慧昭さんの彼岸花。
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こうせつさんのお友達の皆さんもご奉賛されています。
伊勢正三さんご夫婦。これは奥様。
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壇ふみさんの兄壇太郎さんご夫婦。ご夫婦ともにエッセイスト。
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笑福亭釣瓶(駿河学)ご夫婦。
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45cm四方の杉板1枚に名入りで好きな絵を仕上げて3万円だそうです。どなたでも応募できるようです。
突然訪ねた見ず知らずの者にもかかわらず、Tさんからいろいろと親切に説明をしていただきました。
Tさんありがとうございました。Tさんはじなしの(高校の)先輩でもありました。

花香キリシタン墓群
 赤~キリシタン墓 (青~勝光寺)

おっと…忘れていました。今日はキリシタン遺跡を訪ねていたのだ。
竹中駅を過ぎ、上戸次(かみへつぎ)小学校先の豊肥線踏切を渡る。踏切の横にある石碑。
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道なりに進んでいくと行き止まりとなり、その先に墓地がある。
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キリシタン墓に多い平石(伏墓)が並んでいる。
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廻りに人家もあるがあまり人の気配はしない。だれにも聞くことが出来なかったのだが…キリシタン墓に間違いなさそうだ。
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オアシスにママを迎えに行く。
帰る前に府内の南蛮文化について大分市元町にあるの「大友氏遺跡体験学習館」に立ち寄る。西洋医学、ゼウスでの西洋音楽?ボランティア発祥の地など昔の府内の町並みを想像しながら歩いて?来ました。

7月4日(水)はペトロカスイ岐部神父が373年前に殉教した日です。当日14時より、国見生涯学習センターみんなんかんで「ペトロカスイ岐部を聖人にする集い」が開催される。多くの皆様にご参加頂きたいものだ。主催は国見の歴史と文化を高める会。
ペトロカスイ岐部の故郷が大分のキリシタン遺跡を辿る巡礼コースの起点となり、多くの皆様においでいただければとてもうれしい。
 

昼食に立ち寄った鶴崎の「キッチンいこい」。かつて大分市中心のトキハ隣にあった名店でとり天発祥の店と言われている。
とり天ハンバーグ定食(760円)を頂きました。
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by jinashi | 2012-06-27 22:25 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(10)

竹田市大字長湯字原(はる)

マンサク探訪の帰路に長湯の原キリシタン墓地を訪れる。
先3月4日には野津町のキリシタン墓地現地説明会に出かけたが、戦国時代には野津から竹田地方にかけて多くの信者たちが居たことを知る。
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説明板によると
~当時この地区は朽網(くたみ)と言われ、1550年~1580年には300人の信者が居たといわれる。日本で最初の教会が設けられており、日本八大布教地(府内、平戸、博多、鹿児島、山口、京都、堺とともに)のひとつに数えられていた。
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T型の墓標に刻まれている「INRI」の文字。
キリスト処刑のクルスに掲げた「ナザレの王ユダヤのイエス」の頭文字。
墓碑ではなく墓地全体を見下ろしていたクルスに載せられた墓標で、キリシタン信仰華やかなりし頃のものだという。…干十字の上部なのかもしれない? 昭和24年に県指定史跡となっている。
国東市国見町櫛来にもINRIと刻まれた石(祭壇石か?)がある。野外にあって風化が進んでいるのが心配だ。
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1549年にフランシスコザビエルの布教により広まったキリスト教も、1612年の禁教令が出されると、信者は次第に改宗するかもしくは「隠れキリシタン」となっていく。
秀吉による伴天連追放令が出された1587年に生まれたのが…豊後浦辺(国見町)の出身で郷土の偉人、福者・ペトロカスイ岐部神父だ。


くじゅう連山麓の花園に立ち寄りました。
春を告げる「福寿草」 花言葉は「幸福」
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こちらも早春の花「雪割一華(ゆきわりいちげ)」
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by jinashi | 2012-03-27 19:03 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(0)

 現地マップ

野津のキリシタン墓地
昨年には臼杵市野津町にある下藤キリシタン墓地が発掘調査され多くの遺構が見つかっている。
国内最大規模といわれるこのキリシタン墓地の現地説明会が行われることを新聞で見て出かけた。

野津町中心部からまだ新しい野津中学校横を通って10時30分ごろ小雨のぱらつく吉四六ランドへ着く。吉四六ランドには商工会青年部ソフトボール大会以来26年?ぶりとなる。
受付を済ませて待機するマイクロバスに乗る。10時から順次現地へ出発しており、15人ほどが乗った私たちのバスは4~5組目?となるのだろうか。
5分ほど走ったところでバスを降りる。タバコの植え付けを待つビニールが並ぶ広い圃場の横を歩いて現地へ向かうと見学を終えてバスへ戻る人たちとすれ違う。
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下藤のキリシタン墓地へ着く。先の組が説明を聞いている。
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少し待ってから私たちグループの番となる。
本日説明してくださるのは臼杵市教育委員会文化財課の神田高士さん(手前)。
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野津町キリシタンの歴史(以下は説明会資料より)~
天正6年(1578年)野津院の代官「りんせい」という老人が洗礼を受け「リアン」という洗礼名を授かる。リアンは自分の屋敷に教会を建立し、裏山にはキリシタン専用墓地を造り熱心に布教に努める。記録によると、洗礼から6年たつと9000人もの人がキリシタンとなっていという。天正8年(1580年)にはイエズス会の司祭館が置かれ、野津院はこの地方の布教の中心となり、十字架が14基も立てられた。
野津地方にはいくつかのキリシタン墓地といわれる場所があるが学術的調査により明らかにされたのは下藤地区共有墓地が初めてだ。全国的にもほぼ完全なキリシタン墓地は初めてで、これまで十字架の入った墓碑や「INRI」銘の入った石造物が発見されている。


最初に昨年度発掘された54基の墓標の中から移動した(発掘のため)一つの石組遺構について解説してくれました。
使われた石は仏教墓標やその辺にある石を組んでいる。中には割れた(割った?)石臼も利用されている。(当時キリスト教では仏教墓も相応の時がたてば供養は終えていると理解し、墓標として利用したらしい。)
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南側からみた墓地。手前から順に規則的に配列して埋葬されている。
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仮設の歩道へ移動して全体の説明を聞く。
最大のもので長さは2.5m×1mほどの長方形であり寝かされて埋葬されている。(それまでは屈葬が中心)
発掘中の石組遺構の下からは(棺桶?の)釘が出てきている。もっと深く掘ればクルスなどが出るかもしれないという。
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礼拝堂の跡とみられる礎石建物跡。埋葬の時に祭祀を行ったところか?
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礼拝堂へ続くスロープの道。
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昭和31年に見つかった墓碑。
馬の鞍のような石の塊で花十字紋と「常珎(じょうちん)」という洗礼名が刻まれている。
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平成11年にはここの竹藪の片隅でINRIと刻まれた石が見つかっている。これはキリストの十字架の上に掛けられた「罪状書きの言葉(罪標・すてふだ)」であり、石造十字架の一部ではないかと想像されている。
  ~ 国東にも「INRI」と刻まれた自然石が見つかっている
   「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」  ラテン語で「iesus nazarenus rex iudaeorum」

  北から見た墓地全容。
手前が低く墓標も新しい。使われている石材もあちこちから集められている。
青い屋根の小屋に常珎(じょうちん)墓碑がある。その手前に円型の石敷広場があり、手前から石敷きの通路が通じている。円型広場はミサを行ったところなのだろうか。
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常珎(じょうちん)墓碑のすぐ上にある屋根石に彫られた「干十字紋」。
左が少し欠けている。
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神田さんの分かりやすい説明でこの墓地の状況を知ることができました。
臼杵市教育委員会では平成22年度から始まった発掘調査は25年度まで行われるようです。また新たな発見を期待したいものです。


帰路に係りの人から聞いて野津のR10号横の「寺小路磨崖クルス」(干十字紋)に立ち寄る。ちょうど地元の文化財の先生等と一緒になりお話を伺いました。
昭和の初めに発見されるまで磨崖クルスの彫られた面が地面に伏せられていたため残っていたらしい。
上部にはINRIがあったのかもしれない。
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国道を挟んでこのクルスと反対側には大友家第20代当主大友義鑑(よしあき)の墓地がある。(看板はあるが民家の中を通っていくなどわかりにくい)
キリシタン大名と言われた大友義鎮(よししげ・宗麟)の父となる大友義鑑は、天文19年(1550年)2月10日に起こった「大友二階崩れの変」により重傷を負い、その2日後に没している。
義鑑が建立したという野津院の到明寺(とうめいじ)に葬られた。石室は後年になって造られたもの。 
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大友二階崩れの変(wikipediaより)
大友氏第20代当主・大友義鑑は、正室の子である義鎮を嫡男と決定していたが、側室の子である三男の塩市丸を後継者としたいと考え、義鎮を廃嫡しようとしていたとされる。
このため、大友氏内部では義鎮派と塩市丸派に分裂し、互いが勢力争いを繰り広げていた。義鑑や塩市丸の生母は、塩市丸の後継を実現するために寵臣の入田親誠と共謀して、斎藤長実ら義鎮派の主要人物を次々と誅殺していった。1550年(天文19年)2月、津久見美作、田口新蔵人ら義鎮派の一部が、大友館の2階で就寝していた義鑑と塩市丸、そしてその生母を襲撃した。この襲撃によって塩市丸とその生母、義鑑らの娘2人らが死亡した。津久見・田口の両名はその場で斬られたが、義鑑も数日後に受けた傷がもとで、領国経営に関する置文を残して死去。義鑑の死後、大友氏の家督は戸次鑑連ら家臣に擁立された義鎮が継承した。塩市丸派の入田親誠は肥後の阿蘇惟豊を頼って逃亡するが、事件後に阿蘇氏によって討たれた。事件後に義鎮は襲撃実行者を処罰したが、1553年(天文22年)には服部右京亮らの家臣が義鎮を暗殺しようとする計画が発覚しているなど、家中は不安定な状況が続いた。義鑑の義鎮廃嫡については、義鎮の生母は公家の坊城家の娘、あるいは大内義興の娘とも言われ、家中からの大内氏の勢力排除のために計画された事であるとも考えられている。二階崩れの変は、一般的には追いつめられた義鎮派の一部による暴走であると考えられているが、義鎮が影で動いていたとも言われている。現代においては筑前琵琶などを通じて知られる。


大友義鑑(よしあき)の墓へ詣でたのでこの際、キリシタン大名と言われた21代当主大友宗麟の墓を訪ねてみることにする。
臼杵から津久見へ入り津久見高校前を通って左へ狭い石畳の道を行けば宗麟公園の駐車場に着く。
大友宗麟は島津との戦いに敗れたあとは勢力も衰退し天正15年(1587年)に津久見で没する。享年58歳。
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昭和52年に、元大分市長上田保氏を発起人として「大友宗麟公顕彰会」が結成され磯崎新氏の設計により建てられたキリシタン式の墓。
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仏式の墓もある。
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教名はドンフランシスコ。宗麟を象徴する花押。
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昼食は津久見「浜茶屋」の海鮮丼。 1200円。
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じなしの町の偉人「ペトロカスイ岐部神父」~日出町の家老「加賀山半左衛門とデイエゴ」、「ザビエル鹿鳴越」の道~大友宗麟にかかわる「府内のキリシタン史跡や遺品」~ここ野津の「キリシタン墓地」~(津久見の大友宗麟墓地)~湯布院キリシタン墓群~長湯温泉の「ハルのキリシタン墓碑」~竹田の「洞窟礼拝堂」など大分県にはキリシタンの遺跡が(特に南北に)連なります。
これら歴史遺産を掘り起しストーリーのある「豊後キリシタン巡礼の道」さらには長崎までの「九州巡礼の道」を提案しゆっくりとコースを辿っていただくことで観光交流による地域の活性化に繋げていくことが出来るのではないかと思います。

※ペトロカスイ岐部神父、日出藩家老加賀山半左衛門とその子デイエゴは2008年11月に「福者」に列せられています。
by jinashi | 2012-03-06 21:27 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(4)