カテゴリ:ペトロ岐部とキリシタン史( 24 )

前夜は北寄りの強風を避けて「ホテル蘭風」下の千里ケ浜海水浴場Pで車中泊。
トイレや休憩所も整備されている。

今日は昨日登った安満岳の近くの鯛の鼻まで行ってみよう。(昨日行っておけば良かった) 
安満岳登山口を通り過ぎて道なりに進むと公園のようなところへ着く。
ここは鯛の鼻自然公園となっている。
「分県長崎県の山」にも掲載されている「山」だが・・・車で山頂まで着いた^^ 
標高は447m。
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展望所からは昨日の安満岳と同じようなすばらしい景色だ。
まずはこれから渡る生月島方向。
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昨日登った佐志岳方向。右に屏風岳、志々伎山・・・
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生月島へ向かう。
県道19号を進むとスカイブルーの生月大橋が近づく。
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辰の瀬戸を跨いで連絡する道路橋(トラス橋)。橋長960m(前後の高架橋を含めると1,332m)、最大支間長 400m。総工費46億円。1991年完成(普通車200円)、 2010年4月より無料化となる。

なぜか左に傾く・・
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道の駅の観光案内所でキリシタン遺跡のことを尋ねたら生月町博物館「島の館」を紹介された。
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捕鯨の歴史や生月島キリシタン文化などの展示は見ごたえがある。
天井に吊るされたクジラの骨格(本物)。大きい!
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かくれキリシタン歴史展示室。ビデオ放映もあり。
「島の館」職員の方も親切丁寧でした。
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島の南にある「だんじく様」を訪ねる。
3台ほどが駐車できるところから海岸へ下って行く。
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足場のよろしくない急坂を10分ほど下ると海岸へ出る。
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ここが「だんじく様」。すこし荒れている。
だんじく=暖竹に隠れていた親子3人のキリシタンが沖の舟から役人に見つかり処刑殉教したという。今でも信者が年に一度ここでオラショを唱え祈りをささげている。(説明板)
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平戸地方の潜伏キリシタンの聖なる山、安満岳。左に生月大橋。
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次に向かったのはクルスの丘公園。
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十字架の裏にある史跡「ガスパル様」。
「永禄6年(1563年)この地に十字架を立て、千人を超す人たちが聖歌を唱し大行進を行った。人々はこの地をクルスの辻と称した。今では黒瀬の辻と呼ばれている・・・・生月領総奉行ガスパル西玄可が弾圧により妻長男と共にここ黒瀬の辻で処刑され殉教した・・・・」(説明板)
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公園から東の海に「中江ノ島」が見える。
中江ノ島(なかえのしま)は、長崎県の平戸島と生月島双方から約2キロの沖合にある長さ400m、幅50mの無人島で、キリスト教が禁止された17世紀前半に平戸藩によってキリシタンの処刑が行われたことから、いわゆる隠れキリシタンの聖地となった。住所区分は平戸市下中野町に属すが、上陸は不可。文化財保護法による重要文化的景観「平戸島の文化的景観」に選定されており、2016年に世界遺産登録審査予定であった長崎の教会群とキリスト教関連遺産の構成資産「平戸島の聖地と集落」の対象でもあったが世界遺産の推薦は一時取り下げられ、改めて2018年の登録審査対象となった。(wikipedia)
信者の人がこの島で聖水を採るところを少し前にTVで見たような・・
世界遺産登録候補12箇所のひとつ
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カトリック山田教会を訪ねる。
生月島は、1558年のガスパル・ヴィレラ神父による宣教以来隠れキリシタンの多い島で、1865年の「信徒発見」の後に黒島(佐世保市)から信徒が島を訪れてカトリックに戻るよう働きかけた。当初はなかなか応じなかったが、1878年(明治11年)に平戸に来たアルベール・ペルー神父によってカトリックの洗礼を受けた人々が山田教会の信徒の祖先である。
1880年(明治13年)には仮聖堂があったらしいが、マタラ神父により1909年(明治42年)に教会建設に着工、1912年(大正元年)に完成、献堂された。その後1970年(昭和45年)に改築・一部増築が行われて、現在の形となった。
なお、生月島では明治初期のカトリックの再宣教時にこれに応じず、潜伏時代の信仰組織・様式を守り続ける「カクレキリシタン」の信徒も多く、いまも維持されている。(wikipedia)
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キリシタン遺跡はこのくらいにして島の最北端にある大バエ灯台へ向かう。
途中の塩俵展望広場から見る柱状節理の断崖。
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大バエ灯台に着く。
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灯台の展望台に上がる。80mほどの崖の上に立っているらしい。
向こうは的山(あずち)大島。平戸市に属する。手前の離れ瀬は鯨島。
今日は風が強い!
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長距離となるので・・早めの帰路につく。
帰路の生月大橋から中江ノ島が見えた。
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生月島にはキリシタン遺跡や景観地などまだまだ見所は多いようだ。
また、次回に平戸島の宿題とともに訪れてみたいところだ。




by jinashi | 2016-10-12 18:26 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(4)

高校女子ソフトボール部の団体などで東横インの朝食には長い行列ができた。

ホテルを出てほど近い日本二十六聖人殉教地西坂公園へ着く。
二十六聖人記念碑。高さ5.6m、幅17m、像は等身大。
記念碑(殉教者群像)はペトロ岐部立像と同じ彫刻家舟越保武氏が4年がかりで制作した。
右から11~16番目の6人はフランシスコ会の外国人司祭と修道士。あとは日本人。右から9番目、10番目と20番目は12~14歳の少年。
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1597年2月5日(慶長元年12月19日)、豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された26人のカトリック信者。日本でキリスト教の信仰を理由に最高権力者の指令による処刑が行われたのはこれが初めてであった。この出来事を「二十六聖人の殉教」という。26人は後にカトリック教会によって1862年聖人の列に加えられたため、彼らは「日本二十六聖人」と呼ばれることになった。(wikipedia)
京都で全員左耳たぶを切り落とされ、堺~大阪~山陽道~小倉~博多~唐津~武雄~東彼杵~時津~長崎西坂まで580Kmを歩く。西坂に着いてすぐに処刑され、その後80日間晒された。
磔の刑に処された西坂の丘(殉教者群像碑となり)。
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長崎市東出津町(旧外海町)の遠藤周作文学館へ着くと館長の本木治氏が迎えてくれた。
(数年前にじなしは本木館長さんをペトロカスイ岐部神父記念公園へ案内させていただいた)
高台にある文学館の中庭から見る角力灘の景色。日本夕日百選。
中央右の島は九州最後の炭鉱(閉山)の島~池島。期間限定で炭鉱跡や往時の面影を巡る「長崎さるく」ツアー(長崎県の観光企画)が催されている。
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女性学芸員から遠藤周作が思うペトロ岐部の人物像などのお話しを聞いたあと、本木館長さんの計らいで地元のクリスチャンで教会守の方より外海地区のキリシタン遺跡を案内していただいた。
最初に向かったのはクリスチャン墓地にあるド・ロ神父の墓。この集落にはクリスチャンが多いようだ。
マルク・マリー・ド・ロ神父~パリ外国宣教会所属のフランス人宣教師(司祭)である。1868年(慶応4年)6月に来日し、長崎県西彼杵郡外海地方(現・長崎県長崎市外海地区)において、キリスト教(カトリック)の布教活動の傍ら、貧困に苦しむ人達のため、社会福祉活動に尽力した。(wikipedia)
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曲がりくねった細い道を進んで杉林をバスチャン屋敷跡へ。
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禁教令により外海地方の神父がすべて追放された後、日本人で洗礼名バスチャンという伝道者がこの地方のキリシタン達を指導したといわれている。バスチャンは追手を逃れるため隠れ家を転々としたと伝えられており、この地もそのひとつといわれている。
(長崎市HP)
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ド・ロ神父・大平(おおだいら)作業場跡へ。
ド・ロ神父は明治12年(1879)外海地方に赴任してくると同時に地域住民の福祉と生活向上のため、様々な福祉活動・慈善事業に尽力した。農業振興もそのひとつであり、明治17年(1884)から出津変岳(へんだけ)の原野を開墾し農園を開いた。 この大平にある作業場跡も開拓に伴い設置されたもので、建設年代は開墾事業が完成する明治34年(1901)頃と推定される。作業場跡は、石造を主体とし、正面の一部が煉瓦造の堅牢な平屋建物で、通称ド・ロ壁(かべ)の技術が用いられており、愛馬を繋いだといわれる留金具などが残る。ド・ロ神父の多岐にわたる福祉活動の一端を示す遺構として価値が高い。(長崎市HP)
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大野教会堂へ。
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ド・ロ神父が自費を投じ設計して建てた教会堂。
1893年(明治26年)竣工。平屋建、瓦葺、練塀で柱はない。世界遺産(文化遺産)を目指す長崎の教会群とキリスト教関連遺産リスト12件の一つ。
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日本式天井。国指定重文で・・中には入れない。
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出津(しつ)教会堂へ。
この教会もマルク・マリー・ド・ロ神父の設計により1882年(明治15年)建設された。その後信徒数の増加等により2度の増築を経て1909年(明治42年)に完成。教会堂は角力灘(五島灘)に面する風の強い当地の気象に対応して、レンガ造瓦葺き平屋建て(外壁は白漆喰を使用)の低い屋根を持つ建物となっている。
ここもユネスコの世界遺産(文化遺産)候補の1つ。
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外海を後にして・・長崎道で東彼杵町へ移動。
海岸にある日本二十六聖人乗船場跡へ着く。
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1597年2月4日、26人は夕刻3艘の舟にり、翌朝時津に上陸した。
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川棚町の常在寺のキリシタン墓標へ。
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墓地を通り過ぎて階段を上がった山裾にある墓標。日本最古のキリシタン墓か?
大村藩では明暦3年(1657)の郡崩れ(郡村を中心に数百名の隠れキリシタンが発覚処刑された) のあと、領内のキリシタン墓は徹底的に破却されたが、元和8年(1622)に没したこの富永二介の妻の墓碑は奇しくもその難を免れたものである。常在寺の過去帳に明暦2年に死亡した富永治介の名があるが、この過去帳は一度書き直されていて、そのとき二を次に書き間違えたのではないかと言われている。
高さ95センチ、幅30センチ、厚さ12センチの自然石の墓碑の中央・~は略の意で、その下はクルス、○の下にMACI(マルシア)はキリシタン名と言われているが異説もある。富永二介妻、その右に元和八年、左に七月十五日の銘がある。このような和洋折衷様式の墓碑は全国でも珍しいという。    
(長崎県指定史跡)キリシタン墓碑の案内板より
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最後の目的地、波佐見町総合文化会館へ着く。
イベント受付の女性に「INRIの銘入り石製十字架」のことを聞くと・・すぐ後ろのガラスケースに収められていた。
2006年、町民により寄贈された。全長は約45cm、幅は広いところで約8cm。
自然石の四面に十字架が線刻され、広い二面には十字架に加え「INRI」と刻まれています。江戸時代初期、禁教令 以降のキリシタン関連史料と考えられ、十字架が四面に刻まれている点から、墓碑ではなく、礼拝用の道具であったとみられます。信徒たちは、これをひそかに持ち運び、皆で集まっては石製十字架の周りを囲み、敬けんな祈りを捧げていたのでしょう。
この石製十字架は、波佐見におけるキリシタンの様子を知る上で重要であり、また、「INRI」銘入りのキリシタン関連史料は国内でも珍しいことから、非常に貴重といえます。
石製十字架には、迫害に苦しみ悩む信徒たちのさまざまな思いや清廉な祈りの声が刻まれているのです。
~はさみ100選ガイドブックより(波佐見町教育委員会刊行)
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「観光交流センターくらわん館」で波佐見焼の学習をして帰路につく。
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 あっ・・しまった! 波佐見町総合文化会館前にある原マルチノ像を見学するのを忘れていた!

2日間、ユネスコ世界遺産登録を目前にした長崎キリシタン遺跡を駆け足で周った。
長崎における禁教時代のキリシタン史をより深く知ることで・・ペトロカスイ岐部神父の偉大さを再認識する研修旅行となった。


  
  いつもお立ち寄りいただき 感謝&御礼emoticon-0152-heart.gif ありがとうございます

 本日(2016.8.30) 、訪問者数が200,000人になりました!

by jinashi | 2016-08-30 15:58 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(6)

ペトロカスイ岐部神父の顕彰をすすめるNPO国東半島くにみ粋群の8名は世界遺産登録をめざす長崎キリシタン遺産の視察研修へ出かけた。
この研修を計画準備中の7月27日、国の文化審議会は本年度の国内推薦候補として「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を選定した。平成29年2月までにユネスコへ推薦書を提出し、同年秋にはイコモス現地調査を経て、平成30年夏に開催される第42回世界遺産委員会で登録の可否が審議されることになる。

ペトロカスイ岐部神父が長崎のセミナリヨまで歩いたであろう「東京大学五野井先生推定コース」を確認する。国東→別府→湯布院→玖珠→日田→甘木→八女までは省略して玉名市へ向かう。

B&G国見海洋センターを6時に出発。宇佐市院内R387経由で大分道玖珠ICに乗り→九州道菊水ICで下りて玉名市高瀬の船着き場跡へは9時過ぎに到着する。
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加藤清正が天正~慶長年間にここ菊池川に米蔵と港を作ったところ。
1600年9月の石垣原合戦(大友義統×黒田長政)で岐部一族は敗走した。翌年、父ロマノ岐部は宣教師を頼ってペトロカスイ岐部と弟ジョアン岐部を連れてこの船着き場から、島原半島先端の口之津~茂木経由で当時長崎にあったセミナリヨへ向かったと推測されている。
現在は(干拓がすすんで)河口からかなり上流にあるが、当時は有明海にほど近かったのだろう。
俵ころがしの坂。
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長洲港から有明フェリーに乗船。
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雲仙普賢岳が近づいてくる。
45分ほどで雲仙市多々良港へ上陸。
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13時にガイドをお願いしていた南島原市ガイドの会有馬の郷(有家案内人えびすの会)山下貞文氏と合流。
最初に有家(ありえ)セミナリヨ跡へ・・  
セミナリヨ=キリシタンの神学校。修道士になるための初等教育機関。
コレジオ=大神学校。聖職者育成及び一般教養のための高等教育機関。

天正8年有馬に設置されたセミナリヨも国内の政情不安やキリシタン弾圧などで各地へ移転を余儀なくされた。有家セミナリヨは規模も大きく府内(大分)セミナリヨもこちらへ合併されたようだ。
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花十字紋入り箱型と干十字紋入り切妻蓋石型のキリシタン墓碑が置かれている。
陽刻された花十字紋。
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近くの墓地にあるかまぼこ型キリシタン墓碑。昭和4年にここの地下から発見された墓標。きれいな花十字とローマ字が彫られている。昭和34年国指定。最も高い価値を有するキリシタン墓標のようだ。ガラス越しなのでよく撮れなかった。
長崎県内には100基ほどのキリシタン墓碑があるようだ。
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北有馬町の日野江城跡(国指定史跡)へ。戦国大名有馬氏の居城。築城は1216年ごろ。
ユネスコ(国連教育科学文化機関)世界文化遺産への推薦を日本政府がいったん取り下げた「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」について、長崎県の「長崎世界遺産学術委員会」は、長崎、熊本両県の14の構成資産のうち長崎県内の2資産を「禁教期との関連が薄い」として除外する方針を決めた。その2資産が日野江城址と平戸の田平天主堂。
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かつての城想像図。
13代有馬晴信は1579年洗礼を受けキリシタン大名となる。1582年大友宗麟、大村純忠(晴信の叔父)とともに名代として有馬のセミナリヨから選出された4人の少年を天正遣欧少年使節として派遣した。1590年帰国の際には日野江城で8日間にわたる報告会が催された。
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国指定史跡となる城址へ・・。
発掘により二の丸への階段には宝篋印塔や五輪塔など仏教石塔が使われたことが判明した。階段は外来系の技術で作られているという。二の丸跡からは金箔の瓦も出土した。
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日野江城南西の麓にあったといわれる有馬セミナリオ跡。 2013年3月には原城とここを訪れた。
ラテン語、日本語、音楽、作文など6年間の西洋教育が行われた。
長崎から有馬へセミナリヨが移転したため、ペトロ岐部は5年間をこの有馬で過ごした。
セミナリヨ終了後に修道士になれず同宿として修行を続けるが、1614年キリシタン追放令でマカオに追放される。
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南有馬町にある有馬キリシタン遺産記念館へ。
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正面彫刻絵はここ南島原出身の彫刻家北村西望の作品で大分市の殉教公園にある「キリシタン殉教の地の碑」のレプリカ。あれ、見たことある・・と思った。
北村西望は長崎市平和公園の平和記念像や原城跡の天草四郎像など多くの彫刻を作った。
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天正遣欧少年使節が持ち帰ったグーテンベルク(活版)印刷機の模型。
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記念館で原城における島原の乱の予習。
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原城跡へ。
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石を落として防御した。黒田勢の宮本武蔵も負傷した・・
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天草四郎像(北村西望作)前でペトロカスイ岐部神父生誕地・豊後の国浦辺の住人達。
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ガイドの山下氏には猛暑の中、あちこちへ案内していただき、ご丁寧な説明をありがとうございました。「聞かんとわからん」ことばかりでした。

口之津から半島海岸線を時計回りで走って夕刻おそくに長崎市のホテルへ到着。
夜は山友・お宮さんご推奨の居酒屋さんで懇親会。
そのむかし、長崎のばあちゃんがお土産でよく持ってきてくれたクジラのコロは懐かしい味がした。
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明日は外海の遠藤周作文学館などを訪ねる・・
by jinashi | 2016-08-29 16:26 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(2)

今、日本人のカトリック信徒史で一番聖人に近いといわれるペトロ・カスイ岐部神父の殉教祭が生誕地の国東市国見町で行われた。没377年になる。
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この日は国東市観光協会による1日周遊バスツアー「さ吉くんバス」も到着する。大分別府から参加した21名はペトロ岐部殉教祭を見学した。
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殉教祭では毎年きれいなハーモニーを聞かせてくれる地元ふれあいコーラスの皆さん。
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講演は大分県立先哲史料館長大津祐司先生による「大友宗麟とキリシタン文化」について。
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さ吉くんバスツアーご一行さまは昼食後、世界農業遺産やキリシタン史跡?を歩いた。実はこのコースは「おどろき歴史遺産!!ウオーキング」としてこの秋にお披露目が予定されている。
下後野池の土手を歩く。
この日の最高気温は35.2℃ここ国見町が県内一番の猛暑だった。
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今でも地元の人々に守られている不動堂。密かな信仰の話も聞かれる・・
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昭和14年2月に竣工した長さ150mのトンネル水路。日照りに困った伊美郷は協議を重ね、櫛来郷須川(すご)地区より(下後野池へ)水を分けてもらっている。
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否定キリシタン遺跡と騒がれた櫛来西浜石造物についてこれまでの経過を聞く。隠れキリシタンたちは神仏を依代として密かに祈ったのかもしれない・・。否定と断定するのもロマンがない。
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合鴨が泳ぐ水田。稲とカモ肉の両方を育てる?
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猛暑の中、コースの一部に荒れた山道歩きもあって熱中症も心配されましたが皆さん無事バスへ乗り込みました。
この後、ペトロ・カスイ岐部神父記念公園、城山の芸術祭作品「説教壇」でガイドの話を聞いたあと帰路についた。

皆さま、お疲れさまでした。また、秋(9月24日)のお披露目ウオーキングにもぜひご参加ください。
by jinashi | 2016-07-06 14:16 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(1)

久しぶりに〇〇〇山へ遠征に、と思っていたが・・降水確率60~70%なので中津のひなまつりへ出かけた。

会場は山国川へ近い諸町通り。
諸町とは「中津城の南側にある中津城下初期の町屋十四町の内の一町。一部に武家屋敷があったが、町の大半は諸々の職業の職人が居たので「諸町」と言われている」
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南部まちなみ交流館のおひなさま。
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細川忠興により創建された「諸町蛭子宮」社殿では ・・
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創業三百年のむろや醤油店。中津藩主奥平公に醤油を献上してきた。
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中津にあるキリシタン灯篭といわれる「織部灯篭」を訪ねる。
最初に諸町のはずれ(新魚町)にある自性寺へ。
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境内の隅にありました。
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「織部灯籠(おりべとうろう)」(現地案内板より)
別名キリシタン灯籠ともいい、かくれキリシタン礼拝用の石灯籠と伝えられている。その後、茶庭(ちゃにわ)に好まれ諸方(しょほう)に庭園灯籠として作られた。
この灯籠の特徴は、竿の上部にクルスを表現したような膨らみを持たせ、同じく竿の部分にガウンをまとった宣教師風な人物の足を外開きにした姿が陽刻(ようこく)される、というものである。また、ラテン文字のような文様(もんよう)があるのもあるが、自性寺(じしょうじ)を含め市内の織部灯籠にはそのような文様はない。
織部灯籠は、中津市内に現在三基のこされており、古田織部(ふるたおりべ)と友人である細川忠興が妻のキリシタンであった細川ガラシャの菩提を弔うために、中津城内に建立した長福寺(ちょうふくじ)にあったものを、それぞれ移転したと伝えられている(別の伝承もあり)。
中津市以外に、県内では大分市に二基、竹田(たけた)・臼杵(うすき)に各一基のこされている。また、宮崎県日南市の旧飫肥(おび)藩内には、天正遣欧使節(てんしょうけのうしせつ)の伊東(いとう)マンショの関係からかキリシタン灯籠やかくれキリシタンの墓などが多数残されている。
織部灯籠という名称は、古田織部正重然(ふるたおりべのかみしげなり)が考案した燈籠の一種であることから、名付けられたと伝えられている。

吉田織部正重然(1544~1615)
織部は、安土桃山時代から江戸初期にかけての大名で山城国西岡(やましろのくににしおか)に3万5千石を領した。また、千利休の高弟として利休七哲(りきゅうしちてつ)の一人に数えられた。
徳川方の大名であったが、元和元年(1615)5月、大坂夏の陣直後、徳川家康に死罪を申し渡され切腹した。豊臣方と内通した罪を問われたなど、諸説あるが原因は不明である。
               中津市教育委員会 中津の郷土史を語る会


自性寺は中津藩主奥平家菩提寺。墓地にある十二代藩主昌猷(まさみち)公の五輪塔墓。代々で唯一中津で死んだ殿様。
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中津市殿町(中津商工会議所前)の井上邸にある織部灯篭。
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火袋に剣菱模様の十字形の紋様が彫刻されている。
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最後の1基は福沢諭吉旧居にほど近い浦町の養寿寺にあった。
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マントをまとった宣教師に見えるでしょうか?
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竹田市の織部灯篭は先週行った歴史資料館にあるようだ。

それにしても・・途中ぽつぽつ小雨もあったがその後はいい天気だった。
今日は天気予報が大外れの〈山日和〉だったようだ・・・
by jinashi | 2016-03-09 13:50 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(4)

大分学研究会キリシタン分科会座長の木内さんから誘われて竹田のキリシタン遺跡探訪バスツアーに参加した。

8時過ぎに別府駅西口を出発。大分駅上野の森口で乗車した会員あわせて25人ほどの参加者となる。

最初に向かったのは長湯温泉近くの原のキリシタン墓碑(県史跡)。
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現地講師は竹田市南蛮文化振興室長の後藤篤美さん。
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ここ長湯朽網(くたみ~旧地名)地方は布教時代の多いときは信者数1万5千人に達し、府内、平戸、博多、鹿児島、山口、京都、堺とともにキリスト教日本八大布教地と言われている。
T字型墓碑でINRIはイエス十字架の上部に付けられた罪標。かなり大きな十字架墓標だったのだろう。
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下の道路からPM2.5越に?大船山~黒岳を望む。
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竹田市歴史資料館へ。
平成24年に複製されたサンチャゴの鐘(キリシタンベル)が置かれている。
岡藩中川家に伝来されていたもので、本物は資料館内にある。長崎の慈善院付属病院・聖ヤコブ(サンチャゴ)病院にあったものでは?と言われている。
1612年製作、クルス紋様もあり。
船村徹作詞・舟木一夫歌「サンチャゴの鐘」は昭和48年発売も日の目を見ることのなかった悲劇の名曲
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鐘は自由に撞くことが出来る。
撞き手のTさんは3月27日に国東アストホールで行われるペトロ岐部の創作劇「遥かなる海の讃美歌」に出演の予定。
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武家屋敷通りの竹田創生館へ。
中川家紋にはクルス紋と柏紋があって使い分けたという。
幕府からクルス紋ではととがめられたので外に円を付けくわえて馬の轡(くつわ)だとかわしてきた。イエズス会紋章IHSも隠されている?
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片手で持てる樹脂製レプリカ「ヤコブ石像」は作成費百万円で精巧な造り。本物の重量は30kgほど。こちらも岡城内に隠されていたようだ。聖ヤコブ=サンチャゴ。
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雛人形展開催中。
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古田家仲間長屋門。
千利休の弟子、キリシタン茶人で武将の古田織部は、中川家の祖・中川清秀の妹を妻とし、以来古田家は中川家を支えている。
織部灯篭はキリシタン灯篭ともいわれている。
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殿町洞窟礼拝堂へ。県指定史跡。
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窓枠は(教会の)五角形。正面は宣教師の階段?左右の下部に信者の入り口?
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幅と奥行きは3m、高さは3.5mでドーム状の天井で正面に祭壇がある。
家老の古田重治がここにイエズス会神父を匿ったと言われている。
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洞窟の下には聖水の?湧き水も・・・ 
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歴代竹田藩主と家臣が眠るおたまや公園へ。
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逆卍~仏教を象徴する記号の反対=クリスチャン?
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灯篭の笠の裏にクルスらしき紋様が隠し彫りされている。
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石灯篭の灯袋は全部月と太陽。建立月日に「十」(クルス?)がとても多い。
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誰のものなのか・・かまぼこ墓標。
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「定」の異体文字。クルスづくり?
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家紋「抱き柏」横にハートとダイヤと波を表わす鬼瓦。
キリストを象徴するもの。
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南蛮人宣教師が隠れ住んで火薬を製造していたという大庄屋屋敷跡へ。石段の横に古いかまぼこ石。
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畑の横にある洞窟で土、草の混合物や糞尿を腐食させて火縄銃の火薬原料硝酸カリを製造したらしい。
近くには「岡藩火薬製造所跡」がある。
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宣教師を匿った大庄屋は現在「食事処おおつ」となっている。
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菊池から入ってきた?という大津家の家紋はクルス? 
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下の分家の屋根にも・・・
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このあと茶碗蒸し、汁物、豆乳ぜんざいなど出てきた・・とても美味しい昼の「竹田ご膳」でした。
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鏡処刑場跡へ。市指定史跡。
44名が処刑されたという。キリシタンの数に比べてあまりにも少ないのは藩主の配慮か?
藩主縁の寺により供養塔が建てられた。
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竹田を離れて佐伯市宇目町重岡のルイサ墓へ。
バスでひと眠りしている間に到着。杉林の中にある。
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「渡辺家の当主が、杉の植林をしていたところ、偶然に地中深く埋まっていたこの墓標を発見した。しかし、彼は今まで見たことが無いこの異様な形をした墓標に驚き、たたりを恐れて、土で覆ってしまった。それから40数年が過ぎた頃、時の当主は、父とともに植林をしていた子供のころの記憶をたどり、あれはキリシタンの墓ではなかろうかと思いながら、再び発掘し世の注目を浴びるにいたった。」(説明板)
長さ180cm、幅86cm、高さは頭部で27cm、両脇は25cm。けっこう大きい伏墓。
上部に日輪十字章。
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天正年間は宇目郷に岡藩主志賀親次の出城があり、祖父が居住していたなど・・ルイサは岡藩士渡辺興吉郎の娘であろうと言われている。
軸部に洗礼名「ルイサ」と没年月日「元和元年5月25日」が刻まれている。
(以上説明板抜粋)
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すべての行程を終えて帰路に・・・
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これまで竹田のキリシタン遺跡には何度か訪れている。
今回は「隠しキリシタン」でまちづくりを進める竹田市南蛮文化振興室長の後藤篤美氏の丁寧な解説を聞くことでより深く知ることが出来た。

大分県に多く残るキリシタンや南蛮文化の遺産が「日本遺産」に登録され、関係各地の地方創生につながれば良いと思う。

木内座長さん、大分学の楢本さんはじめ会員の皆さん、ご一緒させていただきありがとうございました。
by jinashi | 2016-03-04 10:10 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(8)

大分県に残るキリシタンや南蛮文化の歴史遺産を活用することで歴史・文化、教育、観光などに連携して取り組もうと、2014年2月に発足したおおいたキリシタン南蛮文化協議会だが、昨年度には由布市も加入して7市町となった。
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これまでにガイドブックの作成や、JR九州と連携した「おおいたキリシタン南蛮文化ウオーキング」の開催などを行ってきた。

1月23日(土)には大分市のコンパルホールでキリシタン遺跡についての講演や7市町各首長によるパネルディスカッションがおこなわれた。
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最初に「おおいたのキリシタン遺跡」と題して、大分県における布教時代から「豊後崩れ」までのキリシタン墓の特徴などについて別府大学田中裕介教授より講演がおこなわれた。
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引き続いて7市町首長によるパネルディスカッションがおこなわれた。それどれの首長による遺産活用の想いが語られた。
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最後に佐藤樹一郎会長(大分市長)より7市町が連携して「日本遺産」登録を目指すことを宣言して閉会した。
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世界遺産=文化財の価値付けを行い、保護・保存するのを目的とする。
日本遺産=地域に存続する文化財を「面」として活用し、発信することで、地域活性化を図ることを目的とする。
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登録されれば、2018年の国民文化祭、2019年ラグビーワールドカップ、そして2020年東京五輪などのインバウンドによる経済効果も期待できそうだ。
by jinashi | 2016-02-01 12:03 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(0)

豊後キリシタン史の解明が期待されるマレガ神父文書群についてのシンポジウムがあることを新聞で見て臼杵市へ出かけた。
「キリシタン・南蛮文化交流協定協議会」が後援している。

会場の臼杵市民会館。
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開始時には聴講者で満席となった小ホール。
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イタリア人神父のマリオ・マレガ氏(1902-1978)は昭和4年に来日し45年間滞在した。1931(昭和6)年には29歳の若さで大分に着任し、その2年後には正式に大分教会の主任司祭に任ぜられている。大分教区在任期間中(~1950年)に蒐集した1万点余りの豊後キリシタン関係史料は「マレガ文書」といわれ、バチカン図書館に未整理のまま所蔵されていたものが2011年に発見された。

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マレガ神父はそれらの資料を基にして1942年に「豊後切支丹史料」、46年に同続編を刊行している。これまでの大分キリシタン史調査はその2編によるところが大きかったが、今回発見されたものには同史料集未収録の膨大な文書も含まれていて、今後は禁教下の豊後キリシタン史の研究解明が進むと期待されている。
マレガ神父はキリシタン史研究のほか「古事記」イタリア語訳や「忠臣蔵」研究など日本研究者の先駆けでもあったようだ。

2013年11月に人間文化研究機構とバチカン図書館との間で史料の調査・研究協力に関する協定「マレガ・プロジェクト」が結ばれ、2014年2月にスタートした。(プロジェクト期間は2014年2月18日から2020年3月31日まで)
シンポジュウムを主催した「マレガ・プロジェクト」は人間文化研究機構「国文学研究資料館・国立歴史民俗博物館」と東京大学史料編纂所、大分県立先哲史料館、バチカン図書館による共同体。
主催者の人間文化研究機構理事今西祐一郎氏のごあいさつ。
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バチカン図書館長チューザレ・バシーニ氏ごあいさつ。
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中野五郎臼杵市長さんの歓迎あいさつ。
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東京大学史料編纂所の松井洋子氏よりバチカンで発見された経緯や資料の保存状態、現地での調査手順方法や目的などについての説明があった。
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マレガ文書全部21袋の外見。
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史料の内容について大分県先哲史料館佐藤晃洋館長より詳細な説明があった。
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マレガ文書の大部分は1612年、江戸幕府による伴天連門徒禁令以降のものと想定されている。
臼杵藩による宗門改文書。
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最後に意見交換。
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マレガ文書の解明により江戸幕府のキリシタン禁教システムとあわせて藩政のしくみや武士や農民の暮らしぶりなど新たな発見が期待されるという。
今後のレポートを待ちたい。

国東半島各地にも石造文化財などに「隠れキリシタン」といわれる密かな信仰の遺産が多く見られるが、役所や個人宅にキリシタンに関わる文書などが残されているのではないだろうか。
by jinashi | 2014-11-03 15:43 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(2)

日本人で初めて聖地エルサレムを訪れたペトロ・カスイ岐部神父生誕地である国東市国見町からフランシスコ・ザビエルの聖遺物(身体の一部)がある日出町南端のトラピスト修道院まで、111Kmの「オラショ巡礼の道」お披露目ウオーキングが催された。※111Km=(いい祈り)の道。

前日の土曜日には70名ほどが参加して、国東市国見町岐部のペトロ・カスイ岐部神父記念公園から櫛来地区キリシタン遺跡や城下町杵築のカトリック教会などを巡るウオーキング(一部バスで移動)が行われた。
岐部~櫛来地区ではじなしも国東半島エコツアーガイドの一員として案内役を務めさせていただいた。(その日のTOSニュースで放映されたらしい・・・)

2日目の日出町二の丸館から南端のトラピスト修道院までの巡礼ウオーキングにママと一緒に参加した。

物産館と観光協会がある日出町観光の拠点、二の丸館前で9時より開会式が行われた。
地元、日出町工藤町長さんのご挨拶。
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入念にストレッチ体操。この日は80名ほどが参加したようだ。
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裏門櫓から出発し二の丸通りを歩く。
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秀吉の正室ねねの甥木下延俊が築いた日出城は暘谷城(ようこくじょう)とも呼ばれた。今の本丸跡(左)は日出小学校が建っている。
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東北の鬼門に築かれていた隅櫓(鬼門櫓)。東北隅を欠いた5角形の二階櫓。
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日出藩校「致道館」。県内ではここだけに現存。現在修復中。
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別府湾に出る。前の海には海底から真水が涌く場所があり、そのあたりに生息するカレイは城下カレイと呼ばれる高級魚。
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築城時に裏鬼門に立てられたという人柱を祀る祠がある。棺の中から人骨や翁像が発見されている。
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海岸から見る石垣。近江の石工集団による穴太積といわれる自然石の野面積みで頑丈で排水性に優れている。
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海岸部を少し豊岡寄りに進んだところが「フランシスコ・ザビエル船出の地」。
ザビエルは山口から船で宇佐へ上陸し、鹿鳴越からここへ下りて小舟でポルトガル船に乗り移り、府内の大友宗麟に謁見したといわれる。
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小舟を繋いだという石。向こうは別府市街地。
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国道10号線を越えて龍泉寺へ。日出藩家老職を務めた瀧家の累代墓地がある。
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「荒城の月」を作曲した日本の代表的な音楽家・瀧廉太郎。その祖先である瀧家は、代々日出藩の家老などの要職にあった家柄でした。瀧家の菩提寺は数多くの日出藩士が眠る龍泉寺(りゅうせんじ)であり、瀧家および瀧廉太郎の墓が残っています。龍泉寺には廉太郎がドイツ留学時に愛用していた火鉢が残っており、また三の丸には廉太郎の父の生家跡があります。
瀧廉太郎の墓はもともとは大分市の万寿寺にありましたが、遺族の意向により平成23年に瀧家先祖の眠る日出町に移設されました。(龍泉寺HPより)
瀧家11代墓地にある廉太郎の墓。隣は東京音楽学校同窓有志者が建立した「瀧廉太郎君碑」。
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二の丸にある廉太郎像。朝倉文夫作。
代表作に「荒城の月」、「箱根八里」、「花」など。23歳と8カ月の生涯。
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日出藩主木下家菩提寺である松屋寺前からバスに乗って、宇佐別府道路速見インター近くの別荘地速見エコビレッジに到着。ここからトラピスト修道院までウオーキング。
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カヤノ農産の広大な茶畑へ入る。
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お茶の伊藤園と提携した農園で、その生産茶葉は伊藤園製品の一日分ほどという。次々と作付面積を広げているようだ。
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茶畑向うの高台にゴールのトラピスト修道院が見える。
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茶畑最高地点である「到達の丘」から見る別府ゴルフクラブ方向。標高≒480m?すこし肌寒いほどだ。
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トラピストへ向かって歩く。
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作業道を下っていく。
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鞍部からは緩やかだがきつい登りが続く。
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しばらく進むとトラピストへの道へ出合う。
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トラピスト修道院に到着。男子修道院は日本ではここと函館の2か所だけ。
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巡礼手帳にスタンプを押すための行列。
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トラピスト修道院に押印。
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7月に大分を訪れたバチカン市国ローマ法王庁駐日特命全権大使ジョセフ・チェノットゥ大司教から最近送られてきた手紙。
「オラショ巡礼の道」に多くの訪問者が楽しまれるように・・・。
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トラピストの中ではクッキーなどが販売されている。
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フランシスコ・ザビエルの聖遺物(右腕の一部)やペトロ・カスイ岐部と同志殉教者遺骨を拝観させて頂いたら外で一休み。
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再度バスに乗り込んで出発地二の丸館まで戻り、皆さんとお別れする。
参加者、スタッフの皆さん、お疲れさまでした。

オラショ巡礼証~ザックなどに取り付けて歩くことで巡礼者の証となる。
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巡礼手帳。 今日は二の丸とトラピスト修道院の2カ所に押印。
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この「オラショ巡礼の道」を提案されたのは日出町ウオーキング協会会長の財津定行さん。
開会式であいさつをする財津さん。
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財津さんはザビエル生誕500年に当たる平成18年10月に、フランシスコ・ザビエルに 由来する景観美豊かな史跡コースを活用して「第1回ザビエルの道ウォーキング大会」をスタートさせている。
※今年も10月19日(日)に第9回大会が開催される。

2013年3月に別府湾国東半島の海岸線が日本風景街道(シーニックバイウエイ)に登録されたことで、財津さんはザビエルウオーキングのステップアップコースとして国東市のペトロ・カスイ岐部神父記念公園から日出町のトラピスト修道院までの歴史や風景などを楽しみながらの巡礼ウオーキングコースを提案。その後、国東市、杵築市、日出町による実行委員会が設置され、この度のお披露目ウオーキングを迎えた。
財津さんはスペインサンチャゴの道も歩かれていて、日本各地には熊野や四国八十八か所巡礼などがあるがキリシタン巡礼コースは初めてだろうと言われる。

長崎天草地方の教会群、キリスト教関連遺産が世界遺産に認定されようとしている。この巡礼の道が三河国東市長提唱の大分キリシタン南蛮文化協定6市町へ、さらに熊本、長崎へとつながる「九州オラショ巡礼の道」となればすばらしいことだ。


by jinashi | 2014-09-22 16:20 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(13)

戦国時代に豊後の浦辺(うらべ=国東市国見町あたり)で生まれ、日本人で初めて聖地エルサレムを訪れ、さらにローマで司祭となったペトロカスイ岐部神父の殉教祭が行われた。

今年はバチカン市国ローマ法王庁駐日特命全権大使ジョセフ・チェノットゥ大司教をお迎えして記念式典が執り行われた。

昨年3月に地元の熊毛小学校の子どもたちがローマ法王フランシスコ教皇へ就任祝いのお手紙を書いたところしばらくしてローマ法王庁よりお礼の手紙が届いた。その後三河市長が上京の折、大使館を訪れて御礼を述べ、大使にはぜひ国東を訪れてくれるように話されてきたようだ。
今回の大使来訪は法王の代理として出席をされたといえるのかもしれない。

前日5日夕方に大分空港へ到着した大使一行は、ベイグランドホテルにて歓迎実行委員会一同が催す歓迎レセプションに出席された。

翌朝、地元の人々がお迎えする中、ペトロカスイ岐部神父記念公園を訪れた。
(右から2人目が大使)
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国見ふるさと展示館の中にあるペトロ岐部コーナーで説明を受ける。
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殉教祭会場の国見生涯学習センター「みんなんかん」玄関で熊毛小学校の子どもたちの歓迎を受ける。
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記念式典では大分教区浜口司教、三河明史市長に続き、ジョセフ・チェノットゥ大使のご挨拶。
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熊毛小学校の4~5年生が学校や地域やペトロ岐部について紹介する。
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大使から子どもたちへのお礼はフランシスコ法王の写真。
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毎年殉教祭には国見ふれあいコーラスが花を添える。歌い継がれて26年目?
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400人ほどの信者さんによるミサが始まる。
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ミサを終えて大使一行は日出町殉教公園へ向かう。翌日は広瀬知事表敬訪問の後竹田市を訪れるようだ。

午後からは、「くにさきGO!さ吉くんバス」による「ペトロ岐部殉教祭と禁教キリシタンウオーク」も実施された。
梅雨の中、まずは記念公園からスタート。
ペトロ岐部の生涯について・・・
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岐部社のキリシタン灯篭では雨脚が強くなり、この後の行程は車中案内となる。
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この日は櫛来の水田にコウノトリが一羽飛んできていた。
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よく見ると背中にはアンテナ(GPS?)が取り付けられ、足には鑑札らしきも見られる。兵庫県豊岡市の「コウノトリの郷公園」から放鳥された個体のようだ。
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近くにはかわいい合鴨ファミリーも道路を歩いている。
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イチカワ物産前では梅干し、お菓子とYさん手製の猪肉串揚げのお接待に皆さん喜んで下さいました。
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道の駅くにみにゴールイン。
あいにくの雨模様でしたが、天気の良い時にまた来てくださいね!
by jinashi | 2014-07-11 14:34 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(4)