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じなしの山歩記と国東半島ミュージアム

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馬上八幡社と緒方三郎惟栄(これよし)と馬上金山



立石城山を下山した後、近くの馬上八幡社に立ち寄った。
かなり以前にも来たことがある。
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ここは緒方三郎惟栄(これよし)終焉の地といわれている。
境内に入ってすぐ右手に「緒方大明神」の祠がある。
もともと祠は南の米子瀬川畔にあったのを昭和になってここに移されたようだ。
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緒方三郎惟栄は平安末期~鎌倉初期に豊後緒方領(現豊後大野市緒方町)を支配した武将だ。
緒方町原尻の滝近くに「緒方三郎惟栄館跡」があり、以前に立ち寄ったことがある。

城郭放浪記
豊後・緒方三郎惟栄館

惟栄は(緒方領が宇佐神宮の荘園であったため)もともと平家方であったが、後に源氏と通じるようになり、清盛の娘を妻にした大宮司宇佐公道の宇佐神宮を焼き討ちしている。
壇ノ浦の戦いでは源氏方へ多くの兵船を献じて平家滅亡に導くなど、惟栄の生涯は「平家物語」に度々登場する。
壇ノ浦後、頼朝と対立する義経をかくまうために岡城を築城したともいわれ、上野国沼田へ流罪となったが赦免されて豊後に戻る途中、ここ山香郷で平家の祟りにより?落馬して死んだともいわれている。


2011年5月大障子登山のあと、緒方三郎惟栄出生伝説の地穴森神社(竹田市神原)を訪ねた。
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平家物語「緒環(おだまき)の章」にも登場する由緒ある社殿と洞窟です。嫗岳大明神(うばだけ)の化身である大蛇が棲んでいたと伝えられる岩窟を神社の御神体としています。また、竹田市のシンボル「岡城」の築城主、緒方三郎惟栄(おがたさぶろうこれよし)はこの大蛇の末裔であるといわれています。穴森神社にある洞窟内の小石ひとつを持ち帰ると子宝に恵まれるといわれ、今では恋と出会いの場所となり多くの参拝者がおとずれます。願いが叶ったら小石をそっと元の洞窟へもどしましょう。言い伝えでは、穴森神社の岩窟と、宇田姫神社(豊後大野市清川村)の御神体である穴とは通じているという説があります。(ツーリズムおおいたHP)

馬上金山鉱主で貴族院議員成清信愛(博愛の子)が大正8年に社殿を建て替え寄進している。
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神社の西側にR10号とJR日豊本線が並走している。
大分行の特急ソニックが通過した。
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八幡社のある馬上地区はかつて金山として栄えた所だ。
江戸時代から採掘が続いていたが、明治40年に成清博愛が鉱区権を得てより大きく陽の目を見ることになり、明治末~大正にかけて日本一の金銀産出額を記録した。

近くの公民館には当時の古い写真を展示している。
ガラス越しのショット。(入口にカギがかかっていた)
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博愛が建てた日出町の別荘「的山荘」は孫の代になって城下かれい料理で有名になり、皇室や著名人もたくさん訪れている。ひ孫の信幸さんとは商工会青年部時代にじなしと交友があり、(格安?で)的山荘に招待していただいた事があった。将来を期待されながらも若くして世を去られた。

高校生当時、
汽車(SL)?で立石駅から中山香駅の間を通るとこの辺りに鉱滓の山が見えていた。
八幡社近くの金山坑口があったところ。(公民館近くより)
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by jinashi | 2019-03-07 15:36 | 国東半島あれこれ | Comments(0)