NPO国東半島くにみ粋群では国見町内の魅所を歩くコース作りをしている。
①ペトロカスイ岐部神父記念公園をスタートしてキリシタンや石造文化財遺産、景色の良い海岸を歩く岐部・熊毛地区ウオーキングコース
②千灯寺をスタートして大不動岩屋、五辻不動尊を周回、現代アートも楽しむトレッキングコース
①②はどちらもすでにオープンし、ウオークイベントも実施されている。
今日は3番目のコースとなる伊美地区のコース調査で委員のみなさんと現地を歩いた。
予定コースには石造文化財や農業遺産、シシ垣や禁教キリシタン遺産など見所が多い。
午後1時にB&G海洋センターに集合、出発。
最初のポイントは本城公民館にある石造役行者。すぐ近くの山中にある行者堂が古くなったのでここへ移された。前鬼、後鬼も一緒。
新たに建てられた本城十王堂。こちらも近くのお堂が古くなって最近ここに移された。
十王は地獄の裁判官。脱衣婆(だつえば=身剝婆)もいる。2段目の右から2番目。
本城水口へ向かう。
水路の出口へ。
山向こうの後野溜池から350mほどの素掘りトンネルで伊美の谷まで引いた用水路だ。
手掘りで大変な作業だっただろう。それでも当時の土木技術はなかなかのもの・・・。
東中にある「鹿嶋高一光義塔」。
伊美地区は、農業用水不足のためにたびたび干害におそわれて困っていました。とくに、1872~1873年は、収穫がまったくない状態にまでなり、人々は飢餓に苦しみました。そこで、東中地区の鹿嶋高一さんは戸倉伝蔵さん、桐畑源蔵さんの2人に相談をして、ため池づくりの計画を立てました。1878年に工事は始まり、なんと26年もの歳月をかけてつくり上げたのです。その後、何度も台風に襲われましたが、1952年と1990年に2度の修復工事を行っただけで、今でもたくさんの水田がうるおされています。(「わたしたちの国東市」3.4年生副読本より)
解説する前東中区長の田中さん。
鹿嶋高一は上後野溜池(と水路)の新設や元伊美小学校(伊美浜中川原)や伊美村登記所などを建設している。
少し上にある庚申塔。「ショケラ」と呼ばれる上半身裸の 女人像の頭髪をつかんでぶら下げている。
青面金剛庚申に注連縄がされているのが面白い。(神仏習合?)
上後野溜池からは東中水口を出て3か所に水は流れているようだ。田中さん宅横に二番目の水路。
一番上の水路は東中の最も上部に出て、サイホン方式でオレンジ道路を潜っている。少しでも灌漑面積を増やそうとした先人の知恵。
東中水口へ向かう途中の阿弥陀堂。
この近くには鬼籠の円浄寺があった辺りともいわれていて、国東塔など石造文化財も多い。
東中水口。上(東中)後野溜池から468mのトンネルが掘られている。
入口と出口の高低差は2m。当時としては素晴らしい測量技術!?
中をフラッシュ撮影で。
昭和30~40年代、ミカン園の開拓パイロット事業に合わせてつくられた道を上がると峠に出る。当時は軽トラでも登られたようだが・・今は荒れている。
峠から降りたところが秋本順子さんによるメタルアートギャラリー「アトリエジュン」。
「アトリエジュン」の裏山を上がったところにある山神様「おひがし磐座」。一昔前には東中地区の人たちが旧正月行事「百手」の際に神事をしていたようだ。
櫛来地区の周囲山尾根に長さ12Kmにわたって築かれたシシ垣。古来より岩倉社(櫛来八幡社)の眷属である鹿を大切にしていたが農作物を荒らすので鹿を追い出すために築いたという。享和2年(1802年)に完成し、村人400人が山から海へと鹿を追い出したという。今でも櫛来の人は鹿を食べない。
近くから姫島の眺望が良い。
アトリエジュンを少し下ったところの上後野溜池。
1904年(明治37)竣工、灌漑面積12町3反歩。貯水量2万8千トン。
東中隧道水路の取水口。
毎年、田植前には水路の清掃がおこなわれる。
後野池の上にある水路トンネル。櫛来地区の山腹からも水をもらっている。
国見運動公園のすぐ上にある後野溜池。
1830年(文政13)起工。灌漑面積16町歩。貯水量3万2千トン。
伊美小学校時代に遠足に来たところ。
後野溜池の本城隧道水路取水口。
両池には隧道水路建設の石碑が建てられている。
こちらは上後野池のもの。(下の後野池石碑は風化が進んでいる)
B&Gへ周回、予定時間もすぎたので今日はこれまで。櫛来地区の調査は次回に・・・
みなさんお疲れ様でした。
本日の参加委員。 東中石殿前で。
(本日のGPSマップ)
距離≒8Km 累積標高差≒330m