講演「野津のキリシタン遺跡」2014.4.23(水)

国見町郷土史研究会が主催する講演会「野津のキリシタン遺跡」に出かけた。
講師は臼杵市教育委員会文化財課の神田高士さん。
会場の国見町生涯学習センター「みんなんかん」には40~50人ほどが聴講した。
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2年前に臼杵市野津町で行われた「下藤キリシタン墓地発掘調査現地説明会」に参加した際、現地で神田さんの説明を聞いている。
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以下は講演の一部・・・

キリシタン墓の特徴は長方形で頭を西に(エルサレムへと)向けて整然と並んでいる。

十字架を立てるための穴がある墓標もあるが、十字架は自分の近くにキリストが居るというしるしで天の神へ祈るためのもの。(十字架へ祈るのではない~偶像の崇拝はしない)

平戸や長崎外海、五島には豊後から移住したキリシタンが居たのでは?
似たような墓標があるからだ。
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下藤キリシタン墓地は潜伏が始まる前の時代のもので、江戸時代になって外部から入封して来た藩主は、その土地の有力者と取引しながらその地を治めたので、墓地を残すことができたようだ。

臼杵周辺にはまだ調べれば多くのキリシタン墓がありそうだ。
国東の隠れキリシタンについても本年度に行われる調査結果が楽しみだ。

                  等々・・

豊後キリシタンの歴史は1551年ザビエルが宗麟と謁見し、布教を許したことから始まる。ピークには豊後全体で16000人が入信していたという。
宗麟の死後、秀吉の伴天連追放令により大友義統は1587年に豊後での禁教令を発令。次第に弾圧の歴史がはじまる。1614年徳川幕府による禁教令で信者は地下へと潜伏していく。1659年から24年間に渡って豊後各地で続けられた隠れキリシタンの大量捕縛は1000人を越え、俗に「豊後崩れ」と言われている。

Commented by へんろみち大将 at 2014-04-28 23:23 x
このような地味な講演会に4~50人も
参加されたということが驚きです。さすが国見の皆さんですね。

下藤や由布院はまだ知られるようになりましたが
竹田の長湯周辺にはまったく調査されていない大規模な
キリシタン墓もあると思われています。
国東の隠れキリシタンも今年調査が始まるのですか?
もしそうだとしたら画期的なことですね。

素晴らしい貴重なリポートいつもありがとうございます。
Commented by jinashi at 2014-04-29 16:54
大将さん こんにちは。
キリシタン南蛮文化協定にはじまり今後に新たな発見が期待できそうで楽しみです。
神田さんのお話も勉強になりました^^  
聴講者はごらんの通りやや?高齢者ばかりでした。 若い参加者が増えればうれしいですね。
by jinashi | 2014-04-26 18:51 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(2)