早い時間に下山したので雲仙温泉「よか湯」で朝風呂に浸る。
午後は天草四郎率いる島原の乱の舞台となった原城址とペトロカスイ岐部が学んだ有馬のセミナリヨ跡を訪ねてみよう。
(南島原市マップ 赤~原城跡 青~セミナリヨ跡)
天草四郎率いた原城址へR251を半島先端の口之津へ向かって南下する。途中何度かキリシタン墓の案内板を目にし、キリシタン大名有馬氏の歴史ゾーンを感じる。南有馬町乙から標識を見て海岸部へと左折、道なりに進んで原城(はらじょう)跡へ着いた。
元和の一国一城令で廃城となった原城は、1637年(寛永14年)に全国の耳目を集めることとなった。世に言う「島原の乱」が勃発したのである。島原藩主松倉重政・勝家父子は島原城建設による出費などの財政逼迫により苛政を敷き、また、過酷なキリシタン弾圧を行ったことにより農民一揆を引き起こした。この一揆は島原半島のみならず天草にも飛び火し、島原城・富岡城が襲撃された。しかし、一揆の攻城はうまく行かず、やがて一揆の群衆は天草の一揆群衆と合流し約3万7千人が廃城となっていた原城に立て籠もった。 小西行長の家臣の子孫といわれる天草四郎を総大将とし、組織だった籠城戦を展開し幕府軍と戦闘を繰り広げた。 一揆側は3か月に及ぶ籠城には兵站の補給もなく、弾薬・兵糧が尽き果ててきた。対する幕府軍も1千人の戦死者を出しながらも新手を投入し、ついに1638年4月11日から12日(寛永15年2月27日から28日)にかけての総攻撃で一揆軍を壊滅させ、一揆軍は(幕府に内通していた一名を除いて)老人や女子供に至るまで一人残らず皆殺しにされたという。幕府軍は戦後、原城を徹底的に破壊した。その一方で、島原藩主松倉勝家は苛政により乱を引き起こした責任から、大名としては前例のない罪人としての扱いである斬首に処せられた。(wikipediaより)三方を海に囲まれた岬にある原城址。本丸があり、天守閣が建っていたという。
当時15歳の天草四郎にどうしてそのようなカリスマ性統率力があったのか?
島原の乱のあと、城址は幕府軍により徹底的に破壊され、一揆軍の死体も一緒に埋められたようだ。石の下から多くの人骨が出てきたという。
桜の古木の下にある天草四郎の墓
海に向かう天草四郎石像。
ペトロカスイ岐部を偲び有馬セミナリヨ跡へ原城址を離れ、R251を戻るようにして市役所北有馬庁舎へ着く。
庁舎に車をとめて前の高江川に沿って歩く。有馬川と出合う手前にある「有馬川殉教地」。
棄教を拒否した有馬直純(有馬氏2代目日野江城主でキリシタン大名。洗礼名ミゲル)の重臣とその家族の8名が2万人以上の信徒が見守る中、見せしめの火刑となり殉教した。その中には11歳の少年もいた。
8人は2008年11月にペトロ岐部と187人の福者として列せられている。
かつて城下町として栄えたであろう昔の街道を横切り、日野江城址に向かう途中に有馬のセミナリヨ跡がある。
イエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関であった有馬セミナリヨ(※高等教育機関はコレジオという)は1580年にキリシタン大名有馬晴信のもとに開かれている。地理学、天文学、語学(ラテン語)、宗教、美術、音楽など当時最先端の西洋式教育がなされたようだ。
当時の建物の様子。多い時には100名以上の生徒が学んだという。
1期生には天正十年(1582)より遣欧少年使節団としてヨーロッパ諸国へ派遣された伊東マンショ、原マルティノ、中浦ジュリアン、千々石ミゲルの4名がいた。大友宗麟の名代として主席正使をつとめた伊東マンショは帰国後謁見した秀吉に仕官を勧められたが、司祭になることを決めていたためそれを断った。
(右上が伊東マンショ)
9年前、じなしがイタリアを旅したときにガイドから「天正遣欧使節団の4少年たちがヴェネツィアのドッカーレ宮殿やフィレンツェのヴェッキオ宮殿を訪れた初めて日本人です」と聞いたことを思いだした。
また使節団はグーテンベルク印刷機(活版印刷機)を日本に持ち帰っている。
そして1600年、ペトロカスイ岐部が入学。
帰国した伊東マンショ(当時31歳?)らから薫陶を受けている。このセミナリヨで5年間学ぶ中で深い信仰、強い信念そして実行力を身につけたのであろう。
近くにある青面金剛庚申塔。聖母マリアがキリストを抱いているように見える。
島原の乱から40年余り後に建立されたようだ。
13歳のペトロ岐部が豊後浦辺よりこの有馬へどのような道を辿ってきたのだろうか?
同郷人としてこの地を訪れ、4百年の時空を超えて感慨深いものがあった。