青鬼さんに誘われて豊後高田市田染地区の岩屋探訪に参加した。
荘園の里小崎「ホタルの館」に8時集合。地元から荘園の里推進委員会長をされていた河野繁利さん達3人(全員が河野さん)がナビゲーターとして参加。
青鬼さんから以前よりお聞きしていた行入寺副住職の隈井修道さんと木田さんの7名の編隊でスタート。
田染小崎の奥の空木へと向かう。途中に垢離場(禊をする水場)や大山観音(入口)などもあり、かつての六郷満山本山本寺(もとやまほんじ)西叡山高山寺(さいえいざんこうざんじ)の霊場にいることを感じる。
奥愛宕社からは5人が軽トラの荷台に乗って林道を上がっていくと子ども時代を思い出す。
最初に轆轤(ろくろ)岩屋へ向かう。
84歳の繁利さんについて60代5人と30代1人が昔山田だった石垣を通って山道を入る。
轆轤(ろくろ)岩屋に着いた。横長の岩屋で、奥の上部が煤けている。修験者が暖を取ったり食事をしたりしたのだろう。
この岩屋は繁利さんが平成22年11月の国土調査の際に発見したようだ。
参拝者には板に奉書してもらうようで、皆で記帳する。
同行した行入寺の修道さんは国東半島にある修験の岩屋の調査活動をされており、地元の新聞にも取り上げられている。
(2013年2月13日・大分合同新聞)
この轆轤(ろくろ)岩屋にも数回訪れており、今回はさらに奥深くにある岩屋をさがしているのだ。紙上では「豊後豊前六郷山百八十三カ所霊場記」を基に調査を進めており、あと数か所が見つかっていないようで今回もそこらあたりが目的らしい。
それにしても若い僧侶が一人黙々と自寺や六郷満山の古い歴史をたどる活動をしていることは立派の一言。じなしとの会話にも聡明さを感じさせます。
岩屋の中から外を見る。
急坂の道なき植林帯を次の岩屋をめざす。
下りついたところに古い道があってその左手に岩屋がある。
この岩屋は、かつては地区の人たちに守られていてお接待も出されたようでしたが…今では荒れている。
木箱の中には4体の仏が祀られている。左の1体は西叡山高山寺にあった焼け仏らしい。
江戸時代初期、高山寺は比叡山から来た尼さんの付け火で焼失したとも言われている。
一旦軽トラへ戻り、昼食タイム。
小崎荘園へと下り、桝渕から林道を登っていく。修道さんと河野さんと確認しながら再度奥深い岩屋をめざす。
途中から尾根に上がり急坂を登っていく。317mピークあたり。
前には岩峰がそそり立つ。
さらにピークを巻いて登っていく。
やっとたどり着いた岩屋。
ここも岩が煤けた部分があり、厳しい修行が偲ばれる。
すぐ上のピークに上がってみる。うしろにそびえる岩峰は西叡山に続く。
ピークから見る小崎荘園。間戸の峰も見えている。平成22年には国選定重要文化的景観に指定されている。
一旦軽トラ近くに戻り、最後の岩屋へ向かう。
荒れた沢沿いの急坂を登っていく。
右手上部の崖に上がるとその先に岩屋が現われた。
棚状の所には仏が祀られていただろう。このあたりに何度か通った修道さんもこの岩屋の発見に感動の様子だった。
往路を慎重に下って、ほたるの館へと戻る。
平安末期には国東半島に六郷満山という仏教文化が隆盛を極めたといわれている。それはこのような岩屋が多くあり、行者がこもって修行するのに都合がよかったことも大きな要因だったのだろう。
3人の河野さん、修道さん、大変お世話になりました。