吉弘統幸と金宗院 2012・8・4(土)

今年5月13日に行われた第9回み仏の里くにさきウオーキング(の下見に)では、武蔵町の吉弘城や吉弘神社を訪ね戦国武将・吉弘氏の歴史を知ることとなる。

吉弘氏最後の武将統幸(むねゆき)は豊後の都甲荘で10代目吉弘鎮信(しげのぶ)の長男として生まれ、大友義統(よしむね~宗麟の長男)に仕えた槍の名手といわれる。忠実な家臣として石垣原合戦(慶長5年9月13日※関ヶ原の戦いはその2日後)に出陣し、黒田如水の大軍と果敢に戦うも戦死する。永禄7年生まれで没年は37歳。
戦の前に統幸は義統へ西軍(石田三成)につくことを一度は反対したという。
8代目氏直(うじなお)から統幸にかけての4代は皆若くして不運の死をとげている。
石垣原の戦い前に詠んだ統幸の歌 ~
  「明日は誰が草の屍や照らすらん石垣原の今日の月影」
(吉弘氏最後の武将統幸(むねゆき)鎧姿画像~国東市武蔵町の室利則さん所有)
朱の槍は朝鮮役(文禄慶長の役)で明将李如松の軍旗を奪った功により秀吉から授かったもの。
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吉弘氏の菩提寺「金宗院」 
統幸の墓は別府市の吉弘神社にあるそうだが、豊後高田市松行の「金宗院」にも墓があるというので訪ねてみる。
 (豊後高田市松行)

案内人の青鬼さんは以前ここへ仁王像の取材で訪れている。
ありさんと一緒に都甲八幡社の下で合流し、すこし先の脇道に車を停めて歩いて行く。
里道を緩やかに登っていくと連なる石垣が見えてくる。
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永享9年(1437年)6代目綱重の時代には本家の田原氏より都甲荘を与えられ吉弘氏は武蔵郷吉弘から屋山城を本城にし、平時の屋敷は金宗院近くの筧城に置いたという。都甲荘に入った吉弘一族は六郷満山中山本寺である長安寺の執行権を握り、武士を指揮して国東半島の支配体制を確立していく。
勢場ケ原の戦いで壮絶な戦死をした氏直だが…その子吉弘鑑理(あきただ)は大友宗麟の信頼も厚く、戸次鑑連(べつきあきつら)、臼杵鑑速(うすきあきはや)とともに豊州三老といわれた。
統幸の石垣原敗戦により160余年にわたった吉弘氏による屋山城支配の幕は下りた。そして吉弘氏の菩提寺であった金宗院は無住になったという。
金宗院の階段を上がったところ。
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上がってすぐ右手にある十六羅漢や五輪塔。その先にある供養のための国東塔は岩戸寺の国東塔を模してつくられている。昭和48年に一族の末裔により建てられている。
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統幸の墓といわれる宝篋印塔。戦場からひそか持ち帰った首が埋められたという。(戦後に再建されている)
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豊後高田市にのこる昔話 ~「吉弘統幸・吉名川悲話(よしながわひわ)」
吉弘嘉兵衛統幸は慶長5年(1600)大友義統に従い、関が原の戦いの直前行われた石垣原の戦いで黒田如水の大軍と戦い、壮絶な戦死をとげる。
統幸の首は首実検の後石垣原の獄門台に晒されたという。統幸の戦死を聞いた吉弘氏の菩提寺金宗院の住職は統幸の霊を弔うため、密かに石垣原へ統幸の首を取り戻しに行きました。統幸の首は風に光るカヤ原の中に変わり果てた姿で晒されていました。住職は涙ながらに統幸の首を背負い、鹿鳴越より奥畑を経由しやっとの思いで統幸の故郷長岩屋に帰ってきました。前の長岩屋川で統幸の首を洗おうとしました。すると「統幸の首」はカツと目を開き「ああ! 住職よしな(吉名・やめなさい)」と叫んだのです。住職は大変驚き洗うのをやめました。そして寺(金宗院)へ持ち帰り供養しました。それからいつしか人々は、首を洗った此の場所(長岩屋川)を「吉名川」と呼ぶようになりました。

by jinashi | 2012-08-07 18:23 | 国東半島あれこれ | Comments(0)