神武東征と一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)活発な梅雨前線の影響で九州各地に豪雨災害(死者26人、不明6人/7月16日現在)が発生している。くじゅうや祖母、英彦山などの山々に降った大雨が日田や竹田、耶馬渓の川を氾濫させて洪水災害が起きている。
今日は朝から晴れ間も出てきたがなんとなく山へ登る意欲が起きない。
5月のNHK文化センター講座「宇佐神宮摂社(宇佐八ヶ社)巡り」で訪れた安心院の妻垣社で聞いた~宇佐地方に伝わる「神武東征と一柱(足一)騰宮」伝説を訪ねてみよう。
「神武東征」とは初代天皇の神武天皇が日向(ひむか)を発って大和へ向かい橿原(かしはら)宮で即位するまでの日本神話だ。
古事記では
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ=神武天皇)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂でどこへ行けばもっと良く葦原中国を治められるだろうかと相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いて日向を出発して筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着くと、宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って食事を差し上げた。…
日本書紀では
神武天皇は、甲寅年十月、自ら皇子や舟師を率いて東征に発った。はじめ 早吸之門(ハヤスイノト)に至り一人の漁夫にあった。漁夫は 珍彦(ウズヒコ)という国神であると名乗り、天皇を導かんことを申し出た。天皇は彼に 椎根津彦(シイネツヒコ)の名を賜われた。これが 倭直(ヤマトノアタイ)部 らの祖であるという。その後天皇は筑紫国の 菟狭(ウサ)に至った。時に 菟狭国造 の祖である菟狭津彦 菟狭津媛が、菟狭の川上に 一柱騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を造り饗を奉った。天皇はこれに応え、菟狭津媛を侍臣 天種子命(アマノタネノミコト)に賜妻(あわ)せたという。…(wikipediaより)今年は皇紀(神武天皇即位から)2672年となる。
柁鼻(かじばな)神社最初に向かったのは宇佐市和気にある柁鼻神社。
いつも前のR10を通っていて何を祀っているのだろう?と思っていた。
柁鼻とは舵の形をした突き出た岬を意味しているようで昔はここが海岸線。
神武天皇は佐賀関~国東~竹田津を経由してここから上陸したといわれる。
神功皇后(八幡神~応神天皇の母)が三韓征伐で軍艦を建造した地ともいわれている。
神社近くには孝謙天皇の命により派遣された和気清麻呂が宇佐八幡神のご神託を受けるために到着したとき舟を繋いだという「舟繋ぎ石」が祀られている。
ご祭神は~
鵜草葺不尊(うがやふきあえずのみこと~神武天皇の父)
彦五瀬尊(ひこいつせのみこと~神武天皇の兄)
神日本磐余尊(かむやまといはれひこのみこと~神武天皇)
創建は不明。拝殿からみる神殿。境内はひっそりとしている。
先の古事記、日本書紀にあるように、神武天皇一行は筑紫(豊の国)の国の菟狭(うさ宇佐)川上流で、菟狭国造(うさのくにのみやつこ)の祖の菟狭津彦(ウサツヒコ=宇沙都比古)、菟狭津媛(ウサツヒメ=宇沙都比売)の兄・妹により仮宮で大御饗(おおみあえ=大宴会)を受けたという。
その仮宮が一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)と言われる。
一柱騰宮は、川の中に片側の柱を立て、もう一方を川岸にかけて建てられた宮というがはっきりしていないようだ。一柱騰宮があったと言われる場所は宇佐地方の三か所に伝えられている。
第1の伝説地、宇佐神宮へ宇佐神宮の神橋(しんきょう)近くにある「神武天皇聖蹟菟狭顕彰碑」。
碑の裏には「神武天皇甲寅年冬舟師ヲ帥ヰテ筑紫国菟狭ニ至リ給ヘリ聖蹟ハ此ノ地方ナリト推セラル」と書かれている。
前にある説明板には
「一柱騰宮跡は寄藻川に架かる呉橋の南側の高台と伝えられ、この一帯は騰隈(とうのくま)とよばれています」とある。
顕彰碑近くにある蒸気機関車「クラウス26号」。昭和23年に大分交通に譲渡されてから昭和40年の廃線まで軽便鉄道宇佐参宮線で活躍する。(明治27年製造、71年にわたって活躍)地元有志による寄付により車体を修復し展示している。
7月1日には製造したドイツ機械メーカー「クラウス・マッファイ社」の幹部の皆さんがこの地を訪れクラウス26号を見学する。九州で現存するのはこの1台のみ(日本全国で4台)といい、感慨深げに車体に触れたり、記念写真を撮ったりしたようだ。(大分合同新聞記事より)
朱色の神橋を渡って一柱騰宮跡のある騰隈へ向かう。
表参道よこの初沢の池に咲く古代ハス(大賀蓮)。
表参道から社務所の先を右へ入ると弥勒寺跡がある。
弥勒寺跡そばでかつて宇佐神宮相撲場があったところの奥の小高い地が一柱騰宮があった場所で、騰隈(とうのくま)といわれている。
菟狭川は今の駅館(やっかん)川と云われ、横を流れる藻寄川は狭く一柱騰宮の場所としては無理があるかもしれない。
第2の伝説地、宇佐市拝田へここは2009年3月に和尚山(かしょうざん・327m)に登った時に駐車したところだ。
駅館川沿いの鷹栖観音にも近く舟も寄り付きやすかったのかもしれない。
ここでは「足一騰宮」と書かれている。
隣にある石碑「神武天皇遥拝所」。向こうの山は和尚山(かしょうざん)。
法蓮上人ゆかりの山で天台宗では和尚(おしょう)が亡くなると和尚(かしょう)とよばれるようだ。
前の池は江戸時代に親子2代が15年にわたって作った花立池。
第3の伝説地、安心院の妻垣(つまがけ)神社へ県658を宇佐市西馬城から佐田へ入り安心院中心地から県50で妻垣神社へ到着する。5月19日のNHK講座宇佐八ヶ社巡りで訪ねたばかりだ。
前回には行けなかった共鑰山(ともかぎやま=妻垣山)の磐座(いわくら)へ向かう。
神殿前から340m。標高差は80mほどか?
風に打ち合う竹林の音を聞きながら進むと杉の木に注連縄が張られている。昭和の初めまでこのあたりに拝殿があったようだ。
階段状に整備された急坂を登り上がると磐座へつく。玉垣に囲まれた大岩は苔むしている。神武天皇の御母玉依姫命が御降臨した霊地といわれ、宇佐神宮第二殿ともいわれる。
これが妻垣神社の足一騰宮で心霊の宿った磐座信仰のひとつと考えられているという。(妻垣神社HPより)
磐座近くの木に赤テープが巻かれ上部へ続いているのでそこを辿ってみる。普段着の格好で滑りながらも標高差20mほどを登ると妻垣山山頂に着く。顔を汗がながれ落ちる。山頂標高は241m。
神社にある由緒記には、「神武天皇御東征の砌、宇佐国造の祖・菟狭津彦がこの地に宮殿を建て奉饗せる旧蹟で、その時、天皇は天種子命(あめのたねこのみこと~後に菟狭津媛と結婚する)を以て神武天皇の母后・玉依媛命を祀らせ給う」とある。
駅館川の上流をここ安心院まで登ってきて三女神社(安心院町下毛)で下船したという伝説もあるようだ。
一柱(足一)騰宮伝説で神武天皇の御母が関係するところはこの地だけのようだ。
神武東征~一柱騰宮マップ
赤~柁鼻神社 青~宇佐神宮一柱騰宮 緑~拝田足一騰宮 橙~妻垣社足一騰宮
佐田神社へ帰路に佐田の佐田神社へ立ち寄る。
ご祭神は素戔嗚男尊(すさのうのみこと)、大山祇命(おおやまずみのみこと~素戔嗚男尊の兄)、武内宿祢(たけのうちのすくね)。で佐田郷の総鎮守社。
武内宿祢は高良玉垂命(こうらたまたるひこのみこと)とも呼ばれ、景行、成務、仲哀、応神、仁徳の5代にわたって大臣として仕え国政を補佐したという伝説の人物。別名=善神王ともいう。
この地は豊前と豊後の境界のため大内、大友の抗争の舞台となっている。
両者による最大の合戦・勢場ヶ原の戦いでは佐田氏は大内氏に佐田越の奇襲作戦を進言している。佐田氏は鎌倉御家人の宇都宮系城井氏の分家。神社近くに佐田氏による中世の山城・青山城跡(309m)がある。
境内にある県指定の有形文化財。右の角塔婆(1333年)と三番目の板碑(1332年)が指定されている。
幕末、この地の実業家賀来惟熊(かくこれたけ)は、海防強化のためオランダの図面により反射炉をつくり鉄を溶かして大砲を製造している。
社殿裏側にある反射炉で使われた耐火煉瓦の塀。