大村山(おおむれやま・418.6m) 杵築市山香町の山~大分かくれ名山昨日から台風並みの爆弾低気圧?が九州を通過し、南寄りの強風が一晩中吹き荒れた。
明けて午前中は雨、風ともまだ残っていたが、午後になって収まってきた。このあと晴れてきそうなので、水の口湧水へ水汲みがてらに山香の大村山(おおむれやま)に登ってみることとした。
5月13日(日)に行われる「第9回み仏の里くにさきウオーキング」についてはY下事務局長、地元のY見さんと3月26日に武蔵町コースの下見をしてきた。
(3月26日のじなしブログ) ~
武蔵町へウオーキングの下見に戦国武将吉弘氏の歴史にまつわる史跡や六郷満山峰入り道など約15kmを歩くコースを決める。
下見の際に訪れた吉弘氏家臣末裔の室利則さん宅で、吉弘氏にまつわる槍や鎧姿画像などをお見せしていただいた。その際お話に出てきた大友義鑑(よしあき・宗麟の父~二階崩れの変で横死)の家臣吉弘(源)氏直(よしひろ(みなもとの)うじなお)による勢場ケ原の合戦(天文3年・1534年4月)の話をお聞きした。その合戦で氏直が1000騎の本陣を構えたところが杵築市山香町の大村山だ。前陣の立石峠に1000騎、地蔵峠に800騎、後陣の鹿鳴越に350騎が構えたという。(敵方大内義隆は3400騎を送っている)
山香町のAコープから日豊線を越えて山香中学校先を県道42号へ入る。上貫井から山道へ入り道なりに進むと「大村山登山口」の標柱があらわれる。
夜来の大風で散乱した枯れ木などを撤去しながら狭い道を進む。ぬかるんだところも数か所あって車は泥だらけとなる。
駐車スペースのある登山口へ着くと陽も射してきた。
チェーンゲートからの舗装路を歩き始める。中央は階段となっていて人と車が両方登れるようにしているようだ。登っていくと日指ダムと農業公園方向が見えてくる。南方には由布岳が雲間から覗いている。
ゆっくり歩いて12分ほどで山頂部に登りついた。
草が刈られて整備がされている。
大きな木の下に供養塔が並んでいる。
真ん中にある氏直の墓(供養塔)。
敵に背後をとられたことで血気盛んな19歳の大将は家臣の進言を却下、敵陣へ突撃する。雁行の陣となった大友軍氏直は待ち受ける大内軍陶興房(すえおきふさ)の「鶴翼の陣」の餌食となる。
隣にあるのが氏直の家臣合同供養塔。
これをもとにした供養の位牌?は家臣末裔の室さんが仏壇で祀っている。
(3月26日武蔵町室利則さん宅にて)
地蔵菩薩が彫られた供養のための板碑。杵築市指定文化財。
寒田三河守寒応智大居士(そうだみかわのかみかんおうちおんだいこじ)氏直とともに戦った大将、三河守寒田親将の石塔に寄り添って建てられている。
三河守寒田親将は現国東市長三河明史氏の祖先とも?
先にある2等三角点。
山頂は氏直が陣を構えるにふさわしく全方位が見晴らせる位置と高さがある。
北方には華岳と西叡山。
北西に雲ケ岳と御許山。その右の低いところに前陣を構えた地蔵峠と立石峠がある。
大内軍陶興房は夜陰にまぎれてこの山の向こうから安心院の佐田へと廻った。
爆弾低気圧一過の青空が広がる大村山山頂。
階段付舗装路を下って車に戻る。往路の反対方向へ荒れた道を下っていくと人家のあるところへ出る。道なりに進むと合戦の場となった「勢場」に出る。
勢場の善神王社近くにある大内氏武将杉長門守の供養碑。穴のところが牛の鼻輪に見えるところから「はなぐり石」と呼ばれる。周防の国から運ばれた石材で建てられたといわれ、豊後人に壊されない為に名前は刻まれていないという。
葉桜や兵どもが夢の跡・・・ キランソウ
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帰路の真玉海岸の夕日。日本夕日百選。
最後にCM~
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六郷満山、 祈りの道をたどる