臼杵市野津町「下藤キリシタン墓地」発掘調査現地説明会 2012・3・4

 現地マップ

野津のキリシタン墓地
昨年には臼杵市野津町にある下藤キリシタン墓地が発掘調査され多くの遺構が見つかっている。
国内最大規模といわれるこのキリシタン墓地の現地説明会が行われることを新聞で見て出かけた。

野津町中心部からまだ新しい野津中学校横を通って10時30分ごろ小雨のぱらつく吉四六ランドへ着く。吉四六ランドには商工会青年部ソフトボール大会以来26年?ぶりとなる。
受付を済ませて待機するマイクロバスに乗る。10時から順次現地へ出発しており、15人ほどが乗った私たちのバスは4~5組目?となるのだろうか。
5分ほど走ったところでバスを降りる。タバコの植え付けを待つビニールが並ぶ広い圃場の横を歩いて現地へ向かうと見学を終えてバスへ戻る人たちとすれ違う。
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下藤のキリシタン墓地へ着く。先の組が説明を聞いている。
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少し待ってから私たちグループの番となる。
本日説明してくださるのは臼杵市教育委員会文化財課の神田高士さん(手前)。
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野津町キリシタンの歴史(以下は説明会資料より)~
天正6年(1578年)野津院の代官「りんせい」という老人が洗礼を受け「リアン」という洗礼名を授かる。リアンは自分の屋敷に教会を建立し、裏山にはキリシタン専用墓地を造り熱心に布教に努める。記録によると、洗礼から6年たつと9000人もの人がキリシタンとなっていという。天正8年(1580年)にはイエズス会の司祭館が置かれ、野津院はこの地方の布教の中心となり、十字架が14基も立てられた。
野津地方にはいくつかのキリシタン墓地といわれる場所があるが学術的調査により明らかにされたのは下藤地区共有墓地が初めてだ。全国的にもほぼ完全なキリシタン墓地は初めてで、これまで十字架の入った墓碑や「INRI」銘の入った石造物が発見されている。


最初に昨年度発掘された54基の墓標の中から移動した(発掘のため)一つの石組遺構について解説してくれました。
使われた石は仏教墓標やその辺にある石を組んでいる。中には割れた(割った?)石臼も利用されている。(当時キリスト教では仏教墓も相応の時がたてば供養は終えていると理解し、墓標として利用したらしい。)
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南側からみた墓地。手前から順に規則的に配列して埋葬されている。
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仮設の歩道へ移動して全体の説明を聞く。
最大のもので長さは2.5m×1mほどの長方形であり寝かされて埋葬されている。(それまでは屈葬が中心)
発掘中の石組遺構の下からは(棺桶?の)釘が出てきている。もっと深く掘ればクルスなどが出るかもしれないという。
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礼拝堂の跡とみられる礎石建物跡。埋葬の時に祭祀を行ったところか?
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礼拝堂へ続くスロープの道。
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昭和31年に見つかった墓碑。
馬の鞍のような石の塊で花十字紋と「常珎(じょうちん)」という洗礼名が刻まれている。
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平成11年にはここの竹藪の片隅でINRIと刻まれた石が見つかっている。これはキリストの十字架の上に掛けられた「罪状書きの言葉(罪標・すてふだ)」であり、石造十字架の一部ではないかと想像されている。
  ~ 国東にも「INRI」と刻まれた自然石が見つかっている
   「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」  ラテン語で「iesus nazarenus rex iudaeorum」

  北から見た墓地全容。
手前が低く墓標も新しい。使われている石材もあちこちから集められている。
青い屋根の小屋に常珎(じょうちん)墓碑がある。その手前に円型の石敷広場があり、手前から石敷きの通路が通じている。円型広場はミサを行ったところなのだろうか。
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常珎(じょうちん)墓碑のすぐ上にある屋根石に彫られた「干十字紋」。
左が少し欠けている。
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神田さんの分かりやすい説明でこの墓地の状況を知ることができました。
臼杵市教育委員会では平成22年度から始まった発掘調査は25年度まで行われるようです。また新たな発見を期待したいものです。


帰路に係りの人から聞いて野津のR10号横の「寺小路磨崖クルス」(干十字紋)に立ち寄る。ちょうど地元の文化財の先生等と一緒になりお話を伺いました。
昭和の初めに発見されるまで磨崖クルスの彫られた面が地面に伏せられていたため残っていたらしい。
上部にはINRIがあったのかもしれない。
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国道を挟んでこのクルスと反対側には大友家第20代当主大友義鑑(よしあき)の墓地がある。(看板はあるが民家の中を通っていくなどわかりにくい)
キリシタン大名と言われた大友義鎮(よししげ・宗麟)の父となる大友義鑑は、天文19年(1550年)2月10日に起こった「大友二階崩れの変」により重傷を負い、その2日後に没している。
義鑑が建立したという野津院の到明寺(とうめいじ)に葬られた。石室は後年になって造られたもの。 
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大友二階崩れの変(wikipediaより)
大友氏第20代当主・大友義鑑は、正室の子である義鎮を嫡男と決定していたが、側室の子である三男の塩市丸を後継者としたいと考え、義鎮を廃嫡しようとしていたとされる。
このため、大友氏内部では義鎮派と塩市丸派に分裂し、互いが勢力争いを繰り広げていた。義鑑や塩市丸の生母は、塩市丸の後継を実現するために寵臣の入田親誠と共謀して、斎藤長実ら義鎮派の主要人物を次々と誅殺していった。1550年(天文19年)2月、津久見美作、田口新蔵人ら義鎮派の一部が、大友館の2階で就寝していた義鑑と塩市丸、そしてその生母を襲撃した。この襲撃によって塩市丸とその生母、義鑑らの娘2人らが死亡した。津久見・田口の両名はその場で斬られたが、義鑑も数日後に受けた傷がもとで、領国経営に関する置文を残して死去。義鑑の死後、大友氏の家督は戸次鑑連ら家臣に擁立された義鎮が継承した。塩市丸派の入田親誠は肥後の阿蘇惟豊を頼って逃亡するが、事件後に阿蘇氏によって討たれた。事件後に義鎮は襲撃実行者を処罰したが、1553年(天文22年)には服部右京亮らの家臣が義鎮を暗殺しようとする計画が発覚しているなど、家中は不安定な状況が続いた。義鑑の義鎮廃嫡については、義鎮の生母は公家の坊城家の娘、あるいは大内義興の娘とも言われ、家中からの大内氏の勢力排除のために計画された事であるとも考えられている。二階崩れの変は、一般的には追いつめられた義鎮派の一部による暴走であると考えられているが、義鎮が影で動いていたとも言われている。現代においては筑前琵琶などを通じて知られる。


大友義鑑(よしあき)の墓へ詣でたのでこの際、キリシタン大名と言われた21代当主大友宗麟の墓を訪ねてみることにする。
臼杵から津久見へ入り津久見高校前を通って左へ狭い石畳の道を行けば宗麟公園の駐車場に着く。
大友宗麟は島津との戦いに敗れたあとは勢力も衰退し天正15年(1587年)に津久見で没する。享年58歳。
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昭和52年に、元大分市長上田保氏を発起人として「大友宗麟公顕彰会」が結成され磯崎新氏の設計により建てられたキリシタン式の墓。
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仏式の墓もある。
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教名はドンフランシスコ。宗麟を象徴する花押。
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昼食は津久見「浜茶屋」の海鮮丼。 1200円。
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じなしの町の偉人「ペトロカスイ岐部神父」~日出町の家老「加賀山半左衛門とデイエゴ」、「ザビエル鹿鳴越」の道~大友宗麟にかかわる「府内のキリシタン史跡や遺品」~ここ野津の「キリシタン墓地」~(津久見の大友宗麟墓地)~湯布院キリシタン墓群~長湯温泉の「ハルのキリシタン墓碑」~竹田の「洞窟礼拝堂」など大分県にはキリシタンの遺跡が(特に南北に)連なります。
これら歴史遺産を掘り起しストーリーのある「豊後キリシタン巡礼の道」さらには長崎までの「九州巡礼の道」を提案しゆっくりとコースを辿っていただくことで観光交流による地域の活性化に繋げていくことが出来るのではないかと思います。

※ペトロカスイ岐部神父、日出藩家老加賀山半左衛門とその子デイエゴは2008年11月に「福者」に列せられています。
Commented by Kenny at 2012-03-11 20:41 x
じなしさんお久しぶりです。時々お寄りさせてもらい故郷の様子を探っています。今回野津とあったのでどこかいなと見たら、弊社の実験部(新開発機の実用試験地)のすぐそこだったのでびっくりしました。その下藤キリシタン墓地から北約2kmのところでちょくちょく行っていた所です。吉四六ランドは何回か行ったけどそんなキリシタン墓地あが「あるとは知りませんでした。今度行く機会があったら是非訪れてみたいと思います。それって岐部のキリシタンとなんか関係あるのかな?
Commented by jinashi at 2012-03-12 09:46
K社の実験部はネットで見ました。あんなところにあったんですね。
野津でキリストの布教に努めたリアンと同じ年に大友宗麟は洗礼を受けています。その宗麟に中元を届けていた浦辺の岐部氏家臣である岐部掃部介はペトロ岐部の父(ロマノ岐部)と言われています。同じ時代に豊後にはキリシタン文化が広がったようです。
kennyさんが幼少に住んでいた地区は特に隠れキリシタンの遺跡が多いところですよ。
Commented by Kenny at 2012-03-12 21:40 x
なんかの本で読んだ記憶がありますが、「日本で仏教文化を研究するなら奈良の次に国東半島に行け」と。それに加えてキリシタンですか。そんなすごいご先祖さんたちがいた所の出自を知り、自信よりも情けない自分がいます。ちょっと考えさせられた話です。じなしさん情報ありがとう。
Commented by jinashi at 2012-03-12 22:40
「すご」から「かなまる」ん西山んあたりにや隠れキリシタン遺跡がようけあるんで。こんど帰っちきたら案内しちゃるきな!
by jinashi | 2012-03-06 21:27 | ペトロ岐部とキリシタン史 | Comments(4)