岩に彫られた古代の文字や絵のことをペトログラフという。そして日本では漢字が伝わる前の文字を神代文字という。
この神代文字が彫られた大岩が国東半島にあるということは5年ほど前に地元紙で報道されたことをおぼえている。
数年前に国東郷土史研究家の邦前文吾(くにさきぶんご・ペンネーム)さんにこの岩のことをいろいろとお聞きしたことがある。今回、国見観光ガイドの現地学習会として文吾さんに講師をお願いし、現地へ案内していただくこととなった。
まずは事前学習会で「国東半島こそが古事記の舞台である」という文吾さんの研究の一端を聞く。
神代文字を彫った岩は下関彦島や飛騨高山、青森・北海道などにあり、弥生中期の遺跡や秦の始皇帝が不老長寿の薬を探させた徐福の伝説がある地に多いらしい。
8名の参加者は2台の車に分乗して国東町成仏の現地へと向かう。
近くの道路わきに車を止めて山道へと入る。しいたけのほだ場を通りぬけて尾根筋にあがると小高いところにその大岩が見えてきた。この辺りでは明見石(みょうけんいわ)、または八乙(やおつ)の磐座(いわくら)といわれているようだ。
この岩を発見(こどもの頃から知っていた)したのは近くの溝辺安司さん(故人)。7~8年ほど前じなしが赤根で種田山頭火について調べていたとき、紀行平刀鍛冶について調べていた溝部さんと出会い成仏の自宅を訪れたことがあった。戦後、家宝の刀剣を警察に没収されたことなどを聞いた。
こちら(北)に向かった岩の上面に彫られた神代文字。
「トミアキタラシナカオキテンノウ」と書かれているらしい。万葉仮名の漢字で表現すると「富金足長息天皇」となるらしい。25代天皇のことのようだ。(神武天皇は73代)
大岩の大きさは約3.5m角、厚さ約1.5mで軟質花崗岩の日本一(いや世界一かも?)の大きさのペトログラフ石だそうだ。
南面にも神代文字の列が。
木漏れ日の中に浮き出るペトログラフのアップ写真。
ソコヲヤキ 其処を焼き
ヨキチホレ 良き地掘れ
シモワトク 下は疾く
ヒワノカミノリヨ 日輪の神宣りよ
シフキアエス 子不起あえず
ネツキヨタス 根付き代足す
テムダ 日神子(ヒミコ)
~と書かれているらしい
写真をとると雲が湧いたように白く映ることもあるそうだが・・・じなしは霊感がないので普通にうつっていた。
戦後まもなくどこからかやって来た人が、風化がすすんでいた文字を彫り直したともいわれている。
南の後方に本体から分割された岩が立てられており
〇(日輪) 富山 山陵
と刻まれており、越中(富山)の神通川上流にあったという皇祖皇太神宮と関係しているという。
全体が丸く盛り上がった感じで、文吾さんは前方後円墳の円墳部分ではないかと言われる。
文字からもヒミコの墓を連想する。
文字岩への途中には似たような大岩があり、水をつかって祭祀をしたものか?人為的な帯状の溝が掘られている。
麓の住居あと(溝部さん旧宅)には古い石塔などが多く、廻りにタタラ製鉄で出来た金クソ(使えない製鉄カス)が転がっている。
5~6センチ径の穴が沢山掘られた盃状穴のある大石もある。
はじめて見るペトログラフ文字だったが・・・こんなモノがこの国東半島にあるのだ。文吾さんの言われるようにここはほんとうに古事記の舞台となったところなのかも知れない。
次に立ち寄った富来の八坂社(富来神社)。祭神はスサノウ。お参りすれば宝くじが当たるといい「富くじ(来路)当せん参り」で売り出してきた。
神殿横から入ってすぐにあるオスの唐獅子。3体の子どもを守っている。
神殿にむかって左に雌の唐獅子。「運玉唐じし」と命名されている。大きな玉は子どもを孕んでいるという意味もあるようで、この玉に宝くじや手をさするとご利益があり願いがかなうそうだ。
ちょうど観光客の皆さんを案内されていたガイドの河野洋一郎さん。富来ようなれ会の会長さんでじなしとはこれまでいっしょに「み仏の里くにさきウオーキング」の委員をやってきた。