じなしの山歩記と国東半島ミュージアム
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別府アルプスの内山~大平山を周回する 2012年5月20日
 内山(うちやま・1275m)       大分百山 3回目
 大平山(おおひらやま・810m) ※扇山と呼ばれている   大分百山 2回目

 
 
湯の町別府の背後に聳える峰々(伽藍岳から鶴見岳へ)は「別府アルプス」とも呼ばれ、尾根を縦走すれば東に別府湾が、西には由布岳やくじゅうの山々のすばらしい眺望が楽しめる。
この山系で未踏のコースとなっているうさぎ落しコースから内山へ、さらに石楠花尾根から大平山を周回してみよう。まだシャクナゲの花も楽しめるかもしれない。

明礬温泉から明礬薬師寺へと入り狭い道を上がっていく。道なりに進むと未舗装となり開いたゲートを通る。
(2010年9月5日に兵庫県から秘湯めぐりで鍋山の湯を訪れた女性看護師が首を絞められ殺害されるという残忍な事件があった。犯人は逮捕され、大分地裁で強盗殺人、強制わいせつ致死罪により無期懲役が確定したが、観光都市別府にとってイメージダウンとなってしまった。事件から1年以上、このゲートは閉ざされていたようだ。)
急に前方が開け緑の草原が広がる。正面に内山が、左に大平山を望む。

Y字分岐が現われてその下の広場に車を止める。山口ナンバーの先客が1台。
下山は左手から戻ってくることになる。
分岐からダート道をまっすぐ歩きはじめる。7時21分。ここの標高≒420m。

すこし歩いた道路わきに献花台が置かれたままになっている。ここがその現場なのだろうと思うと胸が痛む。次のゲートが現われ立入禁止となっている。その先から山道へ入る。ゲート横にある灯篭様標識柱。

右に温泉らしきが見えたので立ち寄ってみる。ここがあの鍋山の湯のようだ。湯船は2段になっている。数十メートル上方にはカラスの湯という泥湯もあるらしい。どちらも今は利用禁止?のようだ。

舗装路を進み三つ目の砂防ダム手前を左岸に渡り、ゴルフボールのついたロープに取り付く。ここから山道となる。

最後の砂防ダム上を横切って山へ入る。

新緑の森で一休み。

木や石につけられた黄色のマーキングや古いテープを頼りに進む。あまり歩く人がいないようでまごつくところも数か所ある。谷の奥へ入ると次第に勾配が増し、「ウサギ落としコース」の名のとおり連続する急登にママもスローダウン。

ロープ場を登り上がるとフラットになり地面と岩から湯気が上がっている。ここは以前塚原越から入って見学した所。

その先で塚原越に到着する。標高は≒920mか。
前方から塚原温泉からの5人グループが登ってきた。

一休みしたら内山へと向かう。
しばらくはフラット気味のアップダウンを進むが、山体が近づくと連続するロープ場の急斜面を登っていく。

横長となった内山の肩に上がり、緩やかなアップダウンを歩く。右に由布岳が雲に隠れている。
左に石楠花尾根分岐を見てその先が山頂だ。3度目の山頂に着くと、先のグループが昼食中。
山頂写真。11時34分。4時間以上かかったスローペースでした。

別府方向からガスが湧きあがって船底を西へ駆け抜けている。ときどき山頂部まで溢れて流れる。肌寒くなったのでウインドブレーカーを着て風裏で昼食タイム。
一休みして山頂を後にする。
分岐を石楠花尾根へと下りて行く。

2008年正月に大平山から石楠花尾根に取り付き、次々とピークを登って下って正面に内山が迫ってきたところでタイムアップと雪と疲労でリタイアした思い出?がある。
少し下ったところで終盤となった石楠花が目につくようになる。
シャクナゲは数年にわたって蕾が少ない年があり、その後素晴らしい花をつける年があると聞いたことがある。
厳しいやせ尾根を横歩きで緊張しながら進む。

右下に別府市街地や高崎山、その先が大分市街地方面。

更に何度もアップダウンを繰り返して鞍部となるへびん湯分岐へ着く。内山から2時間経過。

鞍部から標高差50mほど登り返すと大平山山頂へ上がり着く。14時ちょうど。
マウンテンバイクのエンジン音が鳴り響いている。自衛隊別府駐屯地よこから駆け上がってきたのだろう。

すぐにUターンして鞍部をへびん湯へ下りる。ここも初めてのコース。
大きなジグザグを繰り返して林道へ下りる。

左下に男性の声がして露天湯がちらりと見える。ここがへびん湯。

さらに道なりに進み、左に恵美須社を見てくねくね曲がった林道を行くと右下に露天湯が見える。男性が4人入っているようだ。そこは「つるの湯」といわれている。
別府秘湯露天風呂には「からす」と「へび」と「つる」となぜか動物の名が付いている。
この道路は「別府一周遊歩道ルート」となっているようだ。

左へ大きくカーブすると車が見えてきた。
ママも1か月ぶりの山歩きで体も重かったようだが…何とか無事に周回コースを歩き通すことが出来た。15時ちょうど。

今日のGPSマップ(拡大します)


明礬温泉のホテル「さわやかハートピア明礬」の湯で疲れをほぐす。500円。

           ベニバナニシキウツギ

            コツクバネウツギ(虫が中に・・)

             ミヤマキリシマ

              ヒトリシズカ

            ツクシシャクナゲ(咲き残り)

               オトコヨウゾメ

               ベ二ドウダン

                 チゴユリ
# by jinashi | 2012-05-23 22:39 | 大分県の山歩き | Trackback | Comments(0)
第2回八幡文化を訪ねる旅「宇佐八ケ社巡り」 2012年5月19日
宇佐八幡行幸会八ケ社めぐり

NHK文化センター主催「第2回八幡文化を訪ねる旅」に参加した。
今日の学習は宇佐八幡行幸会の八ケ社巡り。

宇佐八幡行幸会は6年に一度(卯と酉の年に)作り替えられる御神体(7月初旬初午の日、薦神社(中津市)の三角(みすみ)池で刈り取られた真薦で作られた枕)を神輿にのせて宇佐八幡と歴史的かかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事で765年に始まり、鎌倉時代まで続いた。1616年、中津藩主細川忠興により再興されたがその後現在まで中断している。
11月初旬初午の日、大宮司以下神職とともに行幸する。
行幸の順は
宇佐八幡→①田笛社(赤)→②鷹居社(オレンジ)→③郡瀬社(黄緑)→④泉社(酒井泉社・緑)→⑤乙咩社(青)→⑥大根川社(紫)→(薦神社)→⑦妻垣社(ピンク)→⑧小山田社(黒)→宇佐八幡…と記録に残る。


足首捻挫と聞いていた青鬼さんもバス乗車地の宇佐駅前に立っていた。サポーターにストック姿でややぎこちない歩きっぷりだが…その学習意欲は御立派です。(前回と同じ)バスに乗り込む。

同乗の皆さんと大元神社例大祭以来(20日ぶり?)の再会。最初の田笛社へ向かう。
田笛社は豊後高田市中心部から宇佐駅にむかう途中の213号線そばにある。
ここは豊前(宇佐市)と豊後(豊後高田市)の境あたり。いつも横を通って知ってはいたが初めて訪れる。

宇佐八幡宣託集には
「田布江(タフエ):古老伝に云う、田笛也。大御神御修行の昔、この所で田笛を吹き、田飯を得られます故に、こう云うなり」とある。   意味は?良くわかりません。
境内や神殿も荒れている。

次に向かったのが鷹居社。宇佐市役所対岸となる駅館川右岸にある。
宇佐小倉山麓の菱形池の笹の上に黄金の童子となって現われた応神天皇(八幡神)がこんどは黄金の鷹となって駅館川の松の木に現れたので大神比義(おおがのひぎ)と辛島勝乙女(からしまのすぐりおとめ)が鷹居社を建てたという。
周辺は鷹居地区公園となっている。

先生、運転手とも進路不明となり地区のおじさんの軽トラに先導してもらって宇佐市乙女の乙咩社に着く。
乙咩社は古代の古墳上に建てられたという。

神社の南にある乙咩水(「ゼミノクチ」とも呼ばれる)といわれる御神水。
八幡神が辛島の酒井泉社からこの地に移った時辛島勝乙目が泉を掘って八幡神の洗浴に関する奉仕をされたという。ここの地名もこの乙目に由来するという。(御霊水の説明書きより)
乙咩神社の近くに八幡小学校がある。宇佐八幡宮近くには宇佐小学校がある。なしか?

四日市の「うなぎの竹の屋」で昼食をとったあとに訪ねた大根川神社。
中津市にほど近い宇佐市佐野のR10線沿いにある。

宣託集には
「大禰河:古老伝に云う。大根川也。大御神御修行の昔、この川辺で大根を召されたので、この名という。社有り、祀あり」とある。
神殿を鉄骨の建屋が覆う。なんか侘しい感じだ。

四日市へ戻って辛島交差点(ローソンの道向こう)にある泉社を訪ねる。

別名酒井泉社といわれるごとく霊水が湧く池がある。

「宝池~天平宝字3年(763年)に、社殿の傍らの霊水で酒を造って八幡神に献じ、その残滴を地に注いだところ、泉になって湧き出たという伝説から、この場所に池を掘ったのが起源であろう。それ以来、昭和の終わり頃まで約1200年間湧き出し続け、名水として、また水田の灌漑水として永く広く利用されてきたが、平成の初め頃(1990年)市の下水道工事で泉の水脈が切断され、湧水量が減少してしまった」(説明板より)

法鏡寺交差点そばにある郡瀬(ごうせ)社。
前をR10号が通り、車の通行量が多い。横の駅館川にかかる橋を瀬社橋という。

ちょうど立ち寄られた地区自治会長さんからご説明をしていただきました。
社殿裏を宇佐往還が通っており、突き当った土手が昔渡し場のあったところ(画像の左下あたり)で、対岸はミスターマックスのあたりという。(むこうの塔の立つ手前あたりに鷹居社がある)
行幸会では鷹居社から船でここ瀬社へ到着したという。

次の目的地は安心院町の妻垣(つまがけ)社。八ケ社のうちここだけ1社ぽつんと離れている。社紋は宇佐神宮と同じ「三つ巴」。韓国の国旗は二つ巴?
平成27年には創建1250年を迎えるようだ。

「妻垣山(ともかきやま)」は太古比咩大神(三女神)の御降臨された霊地にして、宇佐神宮第二殿と言われる。…」(社殿にある妻垣神社由緒記より) 
降臨された比咩大神は「玉依姫命」であり、安心院の地名は比咩大神が院の内で安心したことに由来するとある。  
比咩大神が御降臨されたという神社奥宮にある巨石(磐座)は神社から340mほど行ったところにあるようだ。その磐座が「足一騰宮(あしひとつのあがりみや)」(「一柱騰宮」とも表記する)の奥宮とされているようだが…あわせて次回の宿題としよう。
※一柱騰宮と言われている地は近隣に3か所あるらしい…。

足形石(馬蹄石)。説明書によると~八幡大菩薩が人皇(応神天皇)の昔、龍の駒に乗りこの山に飛び翔けたときの足跡が残っているという。崩落の恐れがあるため社殿近くに移転したという。
御許山にも同じような伝説の石があった。

神社裏手にある「騰宮学館」跡。大正2年、神宮皇學館を卒業した林正木氏が私財を投じて開校したという。当時貧しくて進学できない人のために教員や神職を養成したという。

妻垣神社についていろいろと説明して下さった矢野省三先生。(右・白いジャケットの方) 現在宇佐市の教育委員をされているそうです。
先日の合同新聞で見た「松本清張と安心院 隠れた九州の霊地」(松本清張とふるさと安心院の会発刊)についても解説をしていただきました。
左の本を持つ人は今回お世話をしていただいた事務局の島田さん。1年前までNHK大分のアナウンサーをされていました。

「バスは山路の峠を走るが、その峠を越すと、山峡が俄かに展けて一望の盆地となる。早春の頃だと、朝晩、盆地には霧が立籠め、墨絵のような美しい景色となる。ここの地名は安心院と書いて「あじむ」と読ませる。正確には大分県宇佐郡安心院町である。」 ~ではじまる「陸行水行」は松本清張により昭和37年に書かれている。邪馬台国をテーマにした小説だが、清張は何度も安心院を訪れている。
出版された本。1500円。宇佐市内の書店などで販売されている。

最後の目的地は小山田社。
安心院から宇佐市正覚寺へ入っていく。下矢部あたりでじなしの思わぬ方へとバスは進む。県658を樋田のケーズ電器ちかくに来てしまったのでじなしが志願してナビを務める。数年前に行ったので何とか覚えていたが狭い道を通ったので木の枝がバスに当たって運転手さんに気の毒なことをした。
神殿と拝殿の間の申殿(もうしでん)は基礎だけが残る。

階段を上がった鳥居の額には「貴布祢」とある。小山田の名は神殿建設の祭の寄付者芳名板に見られるだけ。

託宣集によると
元明天皇・霊亀2年(716年)、鷹居社にいた応神八幡神は「此の所路頭にして、往還の人無礼なり。此等を咎むるは甚だ愍(メグ)し(憐れである)。小山田の林に移り住まんと願う」との託宣し、これを受けて「大神諸男・辛嶋勝波豆米が大御神の御心を奉じて、宮柱を立て、小山田の神殿を造り奉り、祭祀を致す」とある。
その後、養老3年(719年)の「隼人の反乱」で朝廷からの鎮圧祈願を承けた応神八幡神は「吾行きて降伏さすべし」と託宣し征討軍の先頭に立って出征、乱の鎮圧に多大の貢献があったという。この隼人の乱鎮圧への貢献によって、国家鎮護の神としての応神八幡神が中央にも広く知られ、小椋山(現宇佐神宮)遷座とつながっていったという。


本日もいろいろと楽しい解説をしていただいた後藤先生。(青いシャツの方) 解説よりも冗談の方が多かった? 先生、目をつむった画像でごめんなさい。


以上で今回の学習は終了です。みなさんお疲れ様でした。

5日間かけてに八ケ社行幸会を終え本宮に還幸したら、その新しい御神体を上宮に納め、同時に旧御神体を上宮から下宮へ移される。
ここからが旧御神体の行幸会となる。4泊して国東半島を横断し5日目(新御神体行幸から10日目)に奈多八幡宮沖の小島(巌島)から古いご神体を竜宮へ還すとして海へ流したようだ。(この旧御神体行幸会は中世になって行われるようになったという)


 

# by jinashi | 2012-05-21 23:06 | 国東半島あれこれ | Trackback | Comments(0)

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